表現することについて 2

c0039094_175958.jpg写真が発明された当初、ホントに当初の段階では、8時間シャッターを開けていなくてはなりませんでした。
それが、写真術の発展につれて数十秒から数秒に短縮されました。

しかし、写真を写すための材料(現在で言うトコのフィルムに相当する)は撮影者自身が製作しなくてはなりませんでした。

1900年頃になると、工業製品としての感光材料(現在で言うトコのフィルを含む)が一般化し、瞬間的に撮影することが可能になりました。

撮影の許容範囲が増大することで、「アマチュア」と呼ばれる写真愛好家が生まれ、写真は急速に広がりを見せました。それは技術的だけではなく、表現の範囲も広まったと解釈できます。
   (中略)
1970年代に入ると、写真に必要とされる露出調整やピント調節を中心とした技法の多くがカメラ側で調節可能になりました。
この展開により、人々は一層、個々のイメージに近い写真を撮影することができるようになりました。写真が人々の視線や思いに、一層近付いたといえるでしょう。
   (中略)
1990年代後半、日本では「プリクラ」というものが流行。自分達の姿を撮影し、友人達と交換するという行動が展開しました。
これは19世期末に流行した「カルト・ド・ヴィジト」(名刺写真)と同じ用法と言えます。これを「歴史の繰り返し」と断じる事、または「世紀末への不安感」と発展・考察することも可能ですが、それよりも逼迫した何かを感じました。

2000年前後、写真は銀塩からディジタルへと主流が移行しようとしました。
撮影者が自らの手で加工することも、配信することも、銀塩の時代に比べて、個人レベルで容易になりました。

その一方で、現状のディジタルカメラの場合には起動時間や撮影時間の関係で、銀塩の数倍以上の時間を要するようになりました。端的に言えば、動きが止まった。

しかし、先に述べたように、撮影した画像の呼び出し、加工、配信という点は飛躍的に発展し、表現の領域も拡大したと言えます。

そうした技法の過渡期に居る私達は、今一度「写真」というものについて考察するのも良いのではないかと思ってみたりするのです。
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by coopiecat | 2005-04-21 01:37
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