表現することについて 3

c0039094_23315176.jpg写真を撮ってからは、技術を駆使して自己の記憶をよりリアルに再現するという行為、つまり表現のための行為が待っている。

自分の記憶というのは言いなおす迄もなく自己のものであり、自分が見たもの、感じたものは完全に自分の中にのみ内包されており、表現の前の段階である再現という課程を経るうえでは必要不可欠な動機である。その自己のイメージに近付けるための技術はあくまで技術という独立した枠組みの中に存在する行為ではなく、一貫した思考を持続するための操作である。撮影の時と同じ「自己の意志に基づく操作」が継続されることが創作の持続には不可欠な要因である。

もっとも、カラー写真やリバーサルフィルムを使用した場合には、その操作が容易ならざる場合もあるが、この技巧的に容易ならざる事態に関しては、その操作が容易ならざるものであるという自覚に基づき、その前の段階-つまり撮影の段階-において操作を加えることが可能である。もっとも、「色」に関しては存在に、その「色」の持つイメージが複合的な要因を加える可能性が非常に高いので、汎用性がありそうではあるが、その許容の範囲が複合的ゆえに広域になることから、逆に条件として狭めるという危険をもはらんでいる。

一方、黒白写真に関して言えば、全ての色彩が黒と白の階調に置き換えられるという極めて厳しい条件下に置かれるようにも捕らえることができるが、その分、鑑賞する側は経験値に基づいて色彩の無い世界に色彩を与えて考えることも可能であり、まったく逆に色彩を排除することで純粋に光の存在や、光がもたらす作用を享受することが可能になるという許容の幅を、鑑賞する側の人数と同じ数だけ無限に広げる可能性を考慮に入れるならば、有限ではありながら無限の可能性を内包していると考えられる。

ここで簡単な実験をしてみよう。準備するのはパソコンと、画像処理ソフトで、カラーで撮影した写真を、グレースケールに置換してみよう。すると、何かが失われ、何かが表出すると思う。その差異こそが色彩の持つ「何か」であり、展開する「何か」と考える事ができるだろう。
(なお、黒白写真はYMCなりBGRに染め上げた透過画像を作成して重ね合わせ、擬似カラー写真を作製するという方法もあるが、とても難しくて、出来上がっても違和感が大きいだけのものになる可能性が高いので、純粋に比較対象とはならないだろう。)

ここでは「色彩」が中心になってしまったが、色彩は光の波長域という事をふまえるならば、重要なのは光に集約されると言えよう。そうなると、表再現する際の重要性の一つが光と言えるのではないか。

もちろん、写っている内容から受ける連想やイメージも重要なキャプターではあるが。

作成中の「写真と芸術」(仮題)より抜粋

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

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by coopiecat | 2005-04-21 23:35
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