表現という行為について考えてみると、その手段というのは音声、言語、身振り等々とその手段はいく通りにも挙げることができるが、共通しているのは「自分の意志の表明」ということに帰結する。いわゆる自己表現という言葉が表現そのものを意味しているのであり、日本語にあるように表面に現わす行為を言う。
次に考えなくてはならないのは、何のために自己を現わしているのかということになるのであるが、そこに現われているのは表現者である存在自体ではない。表現者はそこに存在していることによって再度現わす必要性はないのであるから、表現に至る課程においては表現者においてもっと別個の目的意識が介在していると考えられる。 その目的意識というのは、表現者自身の思考や考えを他者に知らせたいという目的で、自分にとって適した、もしくは自分に可能な手段を伴って具現化することが目的意識という形で現われてくるのではないかと考えられる。 一方、その表現という行為は他者にとってのみならず自分自身に対しても行なわれているというのは興味深い事実である。外から見れば他者に対して行なっている表現するという行為が、実際には表現を行なっている本人にとって自己の再確認をするための手段として表現を伴っていることがあるということである。 この、一見すると相反する行為は表現という一つの行為に共存しているものであり、表現という行為は他者に対して行なうと同時に自分自身に対して行なっていると考えられるのであるが、果たして他者と自己との間には共通する項目があるのか、もしくは、純粋に他者に対する表現とは別個に自分自身に対する表現というものも存在しているのかという疑問も生じてくるのである。 哲学で言うところの自己の中に存在する主体と客体という存在があるのならば、心理学的に解釈するならば、主体が先天的に存在している性質であり、後天的に発生する性格は客体として考えることがこの場合には可能であると思われる。 主体たる性質は、表現活動を行なう際に社会における規範や規律といった一切を無視してその発露を見出だし、なんらかの手段を借りて表出することとなり、また、深層にある自分の精神を発露させるためになんらかの手段を用いる。このことが表現という行為として考えるならば、表現という行為はすなわち自分の中における主体以外の客体すらをも始めとする外界に対して行なっている行為と捉えることが可能となる。 もっとも、この中に出てくる客体およびそれと同列に扱っている性格は外界から受ける影響によって形成されるものであるという解釈から、自分を取り巻く他者および世間における規律や調和といったものと同列にしているわけであり、厳密には同列として扱うことはできないのかもしれない。 作成中の「写真と芸術」(仮題)より抜粋 Kodak DX6490 Digital Camera Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm Belichtungsautomatik COPYRIGHT:Coopiecat
by coopiecat
| 2005-04-22 22:44
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