写真を写されるということ

c0039094_20581482.jpg写真を撮る人間に欠けているものの一つとして「自分が写っている写真」というのがあると思います。

私は極端だった(今でもだけれど…)もので、高校から大学にかけて「私は写真を撮る人間なのだから撮られる必要は無い」と思い、極力写真に写されるコトを拒んだ時期がありました。

ところが、ある時「あの日の自分の写真が無い」という事実に気が付いて、言葉では言い表せない衝撃を受けました。

何だろう…例によって大げさな言い方をするならば、ある時期スッポリと「自分が生きてきた時間」が失われたというか、自ら否定していたこと、自ら消失させていたことに気が付いた衝撃とでも言うのでしょうか…。

その衝撃に直面した後、私は機会があれば写真に顔を出すようにして、同時に、いつでもカメラを携帯して「写真を撮る人」の写真を撮るようにしました。
これはとても嬉しい経験or習慣になっています。

そして、ここ数年は写真を撮るコトが大好きな方々と接する機会が多いこともあって、写真を撮っていただく機会が格段に増えてきました。
もちろん、私も撮ります。撮ってます。
これってすごく嬉しい。

「この人は私と一緒に居たんだ…」
「私はこの人と一緒に居たんだ…」
「この人は、こんな表情をするんだ…」
「私はこんな表情をするのか…」

等々…etc…usw…ecc…Оно различно・・・

「写真の記録性」という言葉や考え方は一つの真実です。
それと同時に出てくるのは「写真の芸術性」ね。

確かに記録かもしれない。
「何か」を感じたから撮るのかもしれない。

それは二義的なモノなのかもしれないと思う時があります。
それを言葉にするならば、同一の思考の方向性に対して能動と受動という立場から考察する、同一根源における二律背反。

イカン…またもワケワカラン事を言ってますね。

撮っていただいた方に感謝。
そして、私もあなたの姿を撮ります。
共に過ごしている、過ごさせていただいている時間を大切にしたいから。

そんな気持ちで一杯デス!

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
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by coopiecat | 2005-05-05 21:42
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