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写真展に行きました 4

昨日と今日、写真展に行ってきました。

まずは新宿のアイデムフォトギャラリー「シリウス」(新宿区新宿:最寄駅は新宿御苑駅)で25日まで(最終日は15時まで!)開催されている「猫展・4人それぞれのニャンコたち」です。

もう一つは入船の「アートスペースモーター」で開催されていた「写真工業特集・黒白プリントはフィルムかデジタルか」です。残念ながら、こちらは本日が最終日。

「猫展」はタイトルの通りテーマはネコ。
それぞれの作家が撮影している、撮影してきたネコとの生活やネコの生態が黒白写真を中心に展開されてマス。

「写真工業特集~」もタイトル通りなのデスが、「写真工業」誌5月号の特集記事と展示会場との共同企画(今様の言葉で言えば「コラボレーション」ってヤツ?)であり、黒白写真という共通項はあるにせよ、チト特殊と言えば特殊な展示会ですが概要を書くなれば…

 「フィルムカメラで撮影→銀塩印画紙」
 「フィルムカメラ→フィルムスキャン→デジタル出力」
 「デジタルカメラ→銀塩プリント」、「デジタルカメラ→インクジェットプリンタ」
 「デジタルカメラ→染料熱昇華型プリンタ」
 (完全には書ききれないのですが、JPEG,RAWといった分類も行われてマス)

と、今後私達が直面するであろう、もしくは直面しているテーマで展開されています。(いや、していました…)

これら二つの展示会を連続して拝見する機会を得て感じたこと…
 (例によって中間はハショリます)
それは…

試行錯誤すること、それは決して制約ではない。
可能性が広がった故の迷いである。
ということ。

写真は撮影だけでは完結しないし、撮影は機材選択だけでは完結しない。
機材選択は写真を完結できない。

私達が機材選択して撮影し、プリントして完結するのだ。

機材選択やプリントするための機材選択、それらを「二次的な問題」として捉えることも可能であるが、あくまでそれらは手段であって目的ではない。
しかし同時に、目的を達成するための手段の選択は、私達が作品製作に臨む際に必須であることであることも忘れてはならないだろう。

多々の機材や可能性を前にして試行錯誤し、迷うことで「妥協する」のか「追及する」のかということも興味深いテーマであるだろうが、最終的には「自分が納得できるか」という問題に帰結するのだと考える。

判りやすい例で言うならば、いわゆる「ファインプリント」の先駆者にして不可侵な存在であるアンセル・アダムスの一連の作品群、もしくは「決定的瞬間」のカルティエ・ブレッソン撮影、ピエール・ガスマンプリントの一連の作品群を思い起こしてみよう。

いずれも初期のプリントと、後期のプリントは全然違うのだ。
何が変わったのか?それは機材かもしれない。

しかし、それ以上に変化しているものがあるのではないだろうか?
例えば、撮影者が抱いている作品へのイメージとか、「その時」に表現したいイメージとか、銀塩で言うなればネガティブ、ディジタルで言うなれば基礎データとか…。

でも、大切なのは、撮影した時に生じる自分自身の「記憶」じゃないかなぁ?

それらをフィルムなりCCDに記録する為に選択する機材や現像・プリント(or出力)する時に求められるテヒニクだって、その時には「それなり」だったかもしれないけれど「撮りたい」と思って撮ったんだからこそ、私達は「撮った時」のコトを思い出す。

では、時間の経過によって作品が変化するのは何故なのか?
それは、私達は作品と共に成長し、変化し続けているからかもしれない。

これは、「かつて愛聴した音楽を聴きなおす」や「愛読した文学を読み返す」、もっと判りやすい例示を挙げるならば「かつて書いた手紙(時にメール)を読み返す」時に去来する「懐かしさ」の中に同居する「恥かしさ」がソレだと思う。

私たちは、撮りたいテーマを、撮りたい時に撮り、再表現したい時に再表現すれば良いのだ。
機材はサポートしてくれるのだし、それらの機材を選択する自由もあるのだ。

なんて強気なコト言ってみたりするのデスが、他の方に自身の作品を提示する場合には別の要素も大きく作用するんデショね…

(何故かサーバが画像を受け付けないので今回は写真無しデス!)
by coopiecat | 2005-05-22 21:59 | カメラ/写真
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