デジャヴュ

c0039094_2233729.jpg何故だかこのところ、以前keita-aoiサンが言われた「デジャヴュ」について考えるコトが多いのデス。
デジャヴュというのはとても興味深い概念で、デジャヴュ…つまり既視感とは、実際に見ていないと認識しているからこそ生じる違和感なのだろうけれど、その違和感の根底を突き詰めて考えてみると、何らかの実際的な既視経験(体験)があるからこそ実体験であるかのように認識する部分との「せめぎ合い」が実際のトコではなかろうか。などと。

そうなると、仮想現実(バーチャル)や現実ってヤツの境界線もアヤシクなってくるのデス。
というのも、仮想現実とは実体験を基にしなければ成立しない概念なのだから。
しかし、同時にソレを未知の物として認識しなければ成立しない概念でもあるのではないかと。

となると、現実も非現実も、仮であるかもしれないが豊富な実体験を認知する、もしくは認知しようとする姿勢が無ければ成立しない。
もっと言えば、現実的に成長するため、非現実や仮想現実を現実のものにするために必要なのも自身の姿勢なのかなぁ…って。

例えるならば、サイエンス・フィクションというのは単語(?)として非合理的なんだけれど、それを可能とするのは読者である私達の経験という現実と願望という可能性の追及、つまり「サイエンス」という現実追求と「フィクション」という非現実環境(を許諾するユルさ)が「せめぎ合う」ことで見事に昇華されているからだと思う。

そして、それは「主観と客観」、もしくは「主体と客体」という考え方にも集約されるのではないかと。これを展開すると「集合無意識」という考えにも結び付けられるのかもしれない。

言葉として考えた場合にも「集合」が成立するためには「個々」という要素が無くては成立しない訳であり、この時点で「集合」と「個々」というのは矛盾であり二律背反である。同様に「無意識」というのは「無意識」を「意識」しなくては成立しないのではないだろうか。

結果、先のサイエンス・フィクションの昇華と同義なのだが、「集合無意識」という考えは数値的に表される(=統計的に表される)概念ではなく、そこには不確定要素である「可能性」や「願望」をも含めた集合的な意識があり、それらを許容する結果としての意識的合意を「集合無意識」と合理的かつ便宜的に記述したのではないかと思ってみたりする。

んで、「何が言いたいの?」ってコトになるのデスが、「現実」ってのも考えようによっては「非現実の集合体」であるかもしれないのだから、主観と客観の両側面から現状と可能性とを把握し、悲観的に受容するのではなく積極的に受容する姿勢と環境が「本質的な現実」なんだろうなぁって思ってみたりしたというコトなのでした。

とはいえ…
う~む、何だか自分でも判らなくなってきた…(^^ゞ

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

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by coopiecat | 2005-10-24 23:09
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