挫折という名の出発点

c0039094_21331741.jpg今日、職場内部の会議で紛糾しました。
その原因は、写真と心理学や哲学と結びつけようと考えた私の発案から。

思いっきり我田引水的に言うなれば・・・

写真は写真だけでは成立しない。
写真を撮影するのは機材ではなく人なのだ。

機材を発展させてきたものは何か。
それは人々の願望だ。

願望とは何か?
それはまだ判らない。

なぜ判らないのか?
それは写真が産業として飛躍的発展を遂げてきたからだ。

それを解明しようじゃないか。

今や写真産業は我々の生活に行き渡った。
しかし、そこで慢心すると必ずや写真は精神的な意味で衰退する。

ではどうすれば良いのか?
今一度、写真というものを客観的な評価に委ねてみるのだ。

それは心理学や哲学に委ねてみるのだ。

なぜか?
それは産業面ではなく、人々の立場から写真を考える時期に達したと考えるからだ。

どういうことか?
写真とは、自身が被写体(この言葉は好きでは無い→対象との共存関係だと思うから)と接し、感じることによって成立(→機材や化学的処理といった、ある意味での客観性を内包するから)成立している世界なのだから。

なんでまた?

ディジタルカメラが主流になりつつある昨今、そして、ホームページやブログで自在に自身の視線や感覚を世界中に発表できるようになった現在である。
そして、写真をアートや芸術といったカテゴライズで括ろうとする側面も見受けられる。
いやまて、それは写真というツールを持っている人間にとってのカテゴライズといった側面でしか無いのではないか?

で、何が言いたいのか?

そんな慢心で良いのか?
限られたor技能を持つ人間が手中にしていた「写真術」は終ったんじゃないか?

その慢心に依存、安住していると、写真自体が終わるぞ?
それは自身の終りを意味しているのではないか?

って、どういうコト?

本質的な意味で写真が芸術やアートであるとするならば、写真を多くの人々に開放しなくてはならないのだ。
なぜならば、写真とは目的ではなく手段なのだから。

手段であるところの写真。それを提案したい。

しかーし!
それは難しいテーマだったようです。

とはいえ、基本姿勢が「突っ張るコトがオトコのぉ~♪たった一つの勲章~♪♪」な私デス。
となりゃ「さわるモノ皆傷つけて~♪」になっちまうのも自明の理。

間違った考え?
極端な考え??

あぁ、そうさ。
お前らの感覚からすりゃ問題児かもしんない。

なってやるさ、なろうじゃないか!
かかってこいや。向かって行くぜ!!

写真のためなら喧嘩上等だぜ。
理論武装も体力勝負も負けないぜ。

相手が本気なら、こっちも本気で行くまでさ。

奇麗事なら何ぼでも言え。
本音なら何ぼでも言ってやる。

俺は負けないから、お前も負けるな。

これが挫折という名の出発点。
相手がデカけりゃデカイ程、俺はタタカウぜ。

言いたくは無いが、喧嘩相手として認めてくれたコトを嬉しく思う。
その思いに感謝して、俺も本気で喧嘩させてもらいたい。

(う~ん、我ながら屈折した感覚の持ち主やねぇ・・・そんな考えを持たなきゃ、もっと上手に世渡りできたり、思うコトを実現できるってのにねぇ・・・:笑)

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

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by coopiecat | 2006-02-08 22:19
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