対立や矛盾を楽しむということ

月に一度、心理学の講習会に参加している。一時期停止していた頃もあるが、都合5~6年は継続している講習会である。

先日のテーマは「語りの心理学(ナラティブ・サイコロジー:Narrative Psychology)」であった。講師が発達心理が専門ということもあり、「ライフストーリー」というものが頻繁にテーマとして出てくるのだが、今回もそれに関連している。

要約するならば、人にとってのライフストーリーというのは、その人の生活(もしくは人生)に於ける「意味付け」の一環であるということ。

つまり、「ライフストーリーを語れる」ということは自分自身が過去から現在までの状況を把握しており、何らかの意味を見出しているという事である。

この「ライフストーリー」を語る事、語ってもらうことはカウンセリングの基本事項である。何故ならば、現状に問題があったり、本人が問題を感じている場合に遡る為の重要な情報が含まれているからである。

判りやすい事例を挙げれば「コンプレックス」である。
何故、そのコンプレックスが生じたのか。
そのコンプレックスが現在にどのような影響を与えているか。

そして、「ライフストーリー」にはもう一つ面白い側面がある。
それは、現在語っている「ライフストーリー」は、現在置かれている状況によって解釈が異なっていたり、方向性が異なるということである。

過去の蓄積である現在でありながら、現在から見た過去が異なるというのは矛盾である。これが面白い。

矛盾でありながら同化するということは、理屈で考えれば困難なことである。
しかし、この部分はヘーゲルも指摘しているように「対立物の統一」ということで理論化することが出来るものであり、東洋哲学で言うところの「陰陽」に密接に関連している。

つまり、矛盾や拮抗している事柄は「現象」であって「結果」ではないということである。
これらを「結果」として誤認してしまうと、そこで思考は停止してしまう。思考の停止ということは、人間的生活の否定に他ならない。

とはいえ、コムズカシイ事を考えるよりかは、今様の言葉で言えば「ありえない!」と結論付けてしまう方が簡単であり、自分自身納得できるような気がしてしまう。
これは一つの思考停止。
そもそも、今様の「ありえない」という言葉自体からして、現に起きている事象に対して存在を否定しているのだから、それこそ「ありえない」のである。(笑)

しかし、ウィトゲンシュタインの言を借りるまでも無く、問題は解決ではなく解消されなくては意味が無い。そのためには考えなくてはならない。

矛盾や拮抗が生じた場合、その状況を楽しむということも必要なのだと考える。その際には、間違っている(間違っていない)と仮定することで矛盾点を見出し、間違っていない(間違っている)ことを証明する背理法(帰謬法)を用いるのも有効だろう。

その為には仏教的な考え方であるが、「謙虚」と「寛容」の気持ちが必要になってくると思われる。
なぜならば、自身の意見に固執することは他の意見の排斥を意味するだけではなく、少なからず自身に強要する自己矛盾が見えてくる可能性が高いからである。そうならないためにも、相手の立場で考え、双方の問題意識を共有することで中道を見出すという第三の道を見つけることが可能だからである。

このことがライフストーリーの実態であり、ヘーゲルが言うところの「対立性の統一」であり、ウィトゲンシュタインの言うところの「解消」の向かうべき方向性だと考えている。

あ、「そんなのヒマだから考えられるんだよ!」というツッコミはイケマセン…
[PR]
by coopiecat | 2007-11-19 21:53 | ことば
<< 久々に時計いじり たまには映画のオハナシ >>