2005年 04月 21日 ( 2 )

表現することについて 3

c0039094_23315176.jpg写真を撮ってからは、技術を駆使して自己の記憶をよりリアルに再現するという行為、つまり表現のための行為が待っている。

自分の記憶というのは言いなおす迄もなく自己のものであり、自分が見たもの、感じたものは完全に自分の中にのみ内包されており、表現の前の段階である再現という課程を経るうえでは必要不可欠な動機である。その自己のイメージに近付けるための技術はあくまで技術という独立した枠組みの中に存在する行為ではなく、一貫した思考を持続するための操作である。撮影の時と同じ「自己の意志に基づく操作」が継続されることが創作の持続には不可欠な要因である。

もっとも、カラー写真やリバーサルフィルムを使用した場合には、その操作が容易ならざる場合もあるが、この技巧的に容易ならざる事態に関しては、その操作が容易ならざるものであるという自覚に基づき、その前の段階-つまり撮影の段階-において操作を加えることが可能である。もっとも、「色」に関しては存在に、その「色」の持つイメージが複合的な要因を加える可能性が非常に高いので、汎用性がありそうではあるが、その許容の範囲が複合的ゆえに広域になることから、逆に条件として狭めるという危険をもはらんでいる。

一方、黒白写真に関して言えば、全ての色彩が黒と白の階調に置き換えられるという極めて厳しい条件下に置かれるようにも捕らえることができるが、その分、鑑賞する側は経験値に基づいて色彩の無い世界に色彩を与えて考えることも可能であり、まったく逆に色彩を排除することで純粋に光の存在や、光がもたらす作用を享受することが可能になるという許容の幅を、鑑賞する側の人数と同じ数だけ無限に広げる可能性を考慮に入れるならば、有限ではありながら無限の可能性を内包していると考えられる。

ここで簡単な実験をしてみよう。準備するのはパソコンと、画像処理ソフトで、カラーで撮影した写真を、グレースケールに置換してみよう。すると、何かが失われ、何かが表出すると思う。その差異こそが色彩の持つ「何か」であり、展開する「何か」と考える事ができるだろう。
(なお、黒白写真はYMCなりBGRに染め上げた透過画像を作成して重ね合わせ、擬似カラー写真を作製するという方法もあるが、とても難しくて、出来上がっても違和感が大きいだけのものになる可能性が高いので、純粋に比較対象とはならないだろう。)

ここでは「色彩」が中心になってしまったが、色彩は光の波長域という事をふまえるならば、重要なのは光に集約されると言えよう。そうなると、表再現する際の重要性の一つが光と言えるのではないか。

もちろん、写っている内容から受ける連想やイメージも重要なキャプターではあるが。

作成中の「写真と芸術」(仮題)より抜粋

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
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by coopiecat | 2005-04-21 23:35

表現することについて 2

c0039094_175958.jpg写真が発明された当初、ホントに当初の段階では、8時間シャッターを開けていなくてはなりませんでした。
それが、写真術の発展につれて数十秒から数秒に短縮されました。

しかし、写真を写すための材料(現在で言うトコのフィルムに相当する)は撮影者自身が製作しなくてはなりませんでした。

1900年頃になると、工業製品としての感光材料(現在で言うトコのフィルを含む)が一般化し、瞬間的に撮影することが可能になりました。

撮影の許容範囲が増大することで、「アマチュア」と呼ばれる写真愛好家が生まれ、写真は急速に広がりを見せました。それは技術的だけではなく、表現の範囲も広まったと解釈できます。
   (中略)
1970年代に入ると、写真に必要とされる露出調整やピント調節を中心とした技法の多くがカメラ側で調節可能になりました。
この展開により、人々は一層、個々のイメージに近い写真を撮影することができるようになりました。写真が人々の視線や思いに、一層近付いたといえるでしょう。
   (中略)
1990年代後半、日本では「プリクラ」というものが流行。自分達の姿を撮影し、友人達と交換するという行動が展開しました。
これは19世期末に流行した「カルト・ド・ヴィジト」(名刺写真)と同じ用法と言えます。これを「歴史の繰り返し」と断じる事、または「世紀末への不安感」と発展・考察することも可能ですが、それよりも逼迫した何かを感じました。

2000年前後、写真は銀塩からディジタルへと主流が移行しようとしました。
撮影者が自らの手で加工することも、配信することも、銀塩の時代に比べて、個人レベルで容易になりました。

その一方で、現状のディジタルカメラの場合には起動時間や撮影時間の関係で、銀塩の数倍以上の時間を要するようになりました。端的に言えば、動きが止まった。

しかし、先に述べたように、撮影した画像の呼び出し、加工、配信という点は飛躍的に発展し、表現の領域も拡大したと言えます。

そうした技法の過渡期に居る私達は、今一度「写真」というものについて考察するのも良いのではないかと思ってみたりするのです。
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by coopiecat | 2005-04-21 01:37