2006年 03月 11日 ( 1 )

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 1

c0039094_21365682.jpg表題:世界は、論理的空間における事実の総和である

1   世界は、成立している事柄の全体である。

1-1  世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めに過ぎない。

1-11 世界はもろもろの事実によって規定されている。
   さらにそれらが事実の全てであることによって規定されている。

1-12 なぜなら、事実の全体は、いかなる事柄が成立しているかを想定し、
   そしてまた、いかなる事柄が成立していないかをも規定するから。

1-13 論理的空間の中にある事実が世界である。

1-2  世界は事実へと解体する。

1-21 どの事柄も、成立することができ、あるいは成立しないことができる。
   そして、その余の事柄は、すべて同じままでありうる。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

私の好きなL.ヴィトゲンシュタインが記した「論理哲学論考」の第一節である。
「論理哲学論考」は哲学書だと思われている向きもあるようだが、私はこの一連の文章は大変興味深いエッセイだと考え、楽しく読んでいるというのが実状である。
そして、写真を考えるにあたって大変有効な示唆が含まれているというのが実感である。
例えば、上に紹介した論理哲学論考の第一節、つまり初心(所信?)表明からしてこうなのである。
つまり、世界という大きな存在は厳然として存在しているにも関わらず、1-13や1-21にあるように受け止める側の認識(論理的・合理的解釈)によって成立しているのだが、それらは成立することもでき、成立しないこともでき、もしくは同じままで推移することも可能なのだ。
これらは矛盾しているようにも見えるのだが、写真に置き換えてみると大変興味深い。

カメラを構えた私達の目の前には事実が展開している。(1-1に対する写真的考察)

展開している事象が無くては撮影できない。(1-11に対する写真的考察)

それら事実の成立を捉えるために技巧を駆使する。(1-12に対する写真的考察)

その結果得られる世界が写真となることが出来る。(1-13に対する写真的考察)

上に同じく、写真という客観性を持った事実を得ることが可能になる。(1-2に対する写真的考察)

しかしながら、私がカメラを向けなければ写真として存在することも、存在しない結果となるのだが、それらは単に私がカメラを向けなかっただけで、眼前に展開していた事象を否定することには直結しない。カメラを向けた事はカメラを向けなかった事象に内包されている一側面に過ぎないのだから、厳密に言えば全ての事象は同じく展開しているのではないだろうか。(1-21に対する写真的考察でありながら強引な反論)

ヴィトゲンシュタイン自身、後に「論理哲学論考」は間違いであったと言っている。
それは世界を規定しようとしつつ、「その余の事柄は、すべて同じままでありうる」という不確定要素と矛盾を内包していたからだと考えている。

自己の視線と思考で世界を捉えようとしたヴィトゲンシュタイン。
そして、それを自ら間違いであったと認める姿勢。
これこそが私がヴィトゲンシュタインに魅せられる姿勢であり、「論理哲学論考」を至玉のエッセイだと思う理由である。

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
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by coopiecat | 2006-03-11 21:40 | 論理哲学論考