2006年 03月 14日 ( 1 )

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2、2-01

c0039094_2226028.jpg表題:事態・対象・論理的空間

2 与えられた事柄、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならない。

2-01 事態は対象(事物、物)の結合である。

2-011 事態の構成要素となりうるということは、物にとって本質的である。

2-012 論理においては、何一つ偶然ではない。もし、ある物が事態のうちにありうるならば、事態のそのような可能性は当の物の中にすでに予定されていたに違いない。
 (以下、2-012系の考察は2-0124まで展開する)

2-013 いかなる物も、いわば可能な事態の空間にある。私は、この空間が満たされていない場合を想像することができても、この空間の中に無い物を想像することはできない。

2-0131 空間的な対象は、無限の空間の中に位置しているにちがいない。(空間の点は、独立変数と見なされた場所である) 後略

2-014 対象は、あらゆる状況の可能性を含み持つ。

2-0141 対象が事態の中に現れうる可能性が、対象の形式である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

「論理哲学論考」の第ニ節である。今回もまた写真に置き換えて解釈してみたい。

事態の結合が写真の画面を構成することができる。(2-01に対する写真的考察)

客観的に見れば事態の構成要素として事物や物の存在を認めることは可能だが、私観的ツッコミを入れるならば、物事の本質の一側面ではないか?いやしかし、その一側面すら物事の本質に内包されている存在だと解釈するならば、そのツッコミは成立しないか…(2-011に対する写真的考察による反論&失敗:笑)

文字通り、論理においては常に整合性が成立するだろう。現場に居る事が出来たから撮影することが出来た写真というのは予定調和の要素を持っているのだろうが、たまたま、本当に偶然居合わせて遭遇し、その時カメラを持っていて、フィルムが入っていて、撮影状態にあったという事例は予定調和の中に入るのだろうか?というツッコミは実は2-0124で「すべての対象が与えられたならば、それとともにすべての可能な状態も与えられている」ってトコで逃げられちゃう…ズルイなぁ、もう!(2-012に対する写真的考察&またしても失敗:泣)

空虚な空間を想定することは出来るのだが、何が足りないのかは想定できないという事だと考えれば、撮影する時に「何かが足りない!」といってシャッタを切る時に躊躇する事態に似ているような気がする。(2-013に対する写真的考察)

写真における被写界深度の概念を反映させると充分に理解できるような気がする。仮の合焦点を想定し、そこに被写界深度を反映させることによって抽出できる事態は独立にして連続を期待できるものだと思うから。(2-0131に対する写真的考察)

2-014、2-0141に関して言えば、これは論理の循環だと思われる。つまり、眼前に展開する事態の認識は自身の視線と考察によって得られるものであると同時に、その認識と視線の設定方式によって如何様にも変化する(=個々人に置いて変化する)要素を持っており、そこに機材的側面を加味すれば、撮影会や撮影旅行で同じ対象を多数が眼前にしていたとしても出来上がってくる写真は何一つ同じ物が無いということを逆説的に証明しているように思える。(と、強引な結び)

いやぁ、あたしゃヴィトゲンシュタインにカメラ持たせて、一緒に撮影に行った帰りの現像待ちの時間にお茶飲んで、上がって来たプリント見ながらオサケ呑みたいなぁ。
なんて妄想を逞しくしてみたりするのでした。

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

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by coopiecat | 2006-03-14 23:15 | 論理哲学論考