2006年 04月 13日 ( 1 )

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-1~2-15


c0039094_19442419.jpg表題:事実の映像

2-1 我々は事実の映像をこしらえる。

2-11 映像は論理的空間における状況を表現する。映像は、字体の成立、不成立を表現する。

2-12 映像は実在の「ひな型」である。

2-13 映像の中では、映像の要素が、対象に対応している。

2-131 映像の中で、映像の要素は対象を代表している。

2-14 映像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。

2-141 映像は一つの真実である。

2-15 映像の要素が一定の仕方で互いに関係することは、事物がそれと同じ仕方で互いに関係していることを表す。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

ついに映像そのものが言及されるようになってきた。これらを写真に投影して考えてみると、写真についてよく言われる「写真は芸術か記録か」という話が意味を成さないものであるかのようにも思われる。
しかし、その「写真は芸術か記録か」という話は写真の帰属性(芸術に属するか、記録に属するか)に関するものであって、写真という存在そのものを考察しているものではない。
そういった点からも、時にはこのヴィトゲンシュタインのように映像そのもの(=写真そのもの)について考えてみる必要もあるのではないかと思われる。

まず、2-1 我々は事実の映像をこしらえる。に関してであるが、これは我々の映像製作、鑑賞の双方を包括した考え方だと言えよう。つまり、我々は事実を映像化することも出来、映像にあるものを事実として認識することもできる。もしくは、それらは事実であるという約束事の上に我々が生活しているということである。この場合、コンピュータグラフィック等を用いた仮想現実も「仮想という事実」という約束事の中で事実化されていると考えるのが妥当だろう。

次に、「2-11 映像は論理的空間における状況を表現する。映像は、事態の成立、不成立を表現する。」を考える場合、まずは「論理的空間」について考えなくてはならないだろう。
これは「1-13 論理的空間の中にある事実が世界である。」があり、「2-012 論理においては、何一つ偶然ではない。もし、ある物が事態のうちにありうるならば、事態のそのような可能性は当の物の中にすでに予定されていたに違いない。」を思い出すことで解決となるであろう。
加えて、これらを映像に置き換えて考察したのがこの節であることを考えれば、事態の成立・不成立を映像が表現すると考えることは充分に理解可能である。そして、それは時に表現しない可能性も含んでいるということを意味している。

「2-12 映像は実在の「ひな型」である。」については我々写真をやっている人間には判りやすい考え方である。写真は実物そのものではないが、その特徴を客観的に、拡大的に捉える(=映像化する)ことが可能であり、それを他の者に提示し、共感を得ることが可能なのだから。
それらのために「2-13 映像の中では、映像の要素が、対象に対応している」や「2-131 映像の中で、映像の要素は対象を代表している。」という構造が求められる。
これを具体化したのが「2-14 映像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。」という考え方に発展するのだろうが、これは大変判りやすい。

「2-141 映像は一つの真実である。」というのは「2-11 映像は論理的空間における状況を表現する。」の循環のように思えなくも無い。また、何故これが「2-14」に繋がっているのか、今ひとつ私には理解できていない。これは単独でも成立できるように思えるのだが・・・
というのも、「2-15 映像の要素が一定の仕方で互いに関係することは、事物がそれと同じ仕方で互いに関係していることを表す。」という節は、まさに「映像は一つの真実」に関しての解釈や対応のように思えなくない。
(今日も全体的に写真のような写真でないような解釈)


Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-04-13 19:45 | 論理哲学論考