カテゴリ:論理哲学論考( 6 )

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-1~2-15


c0039094_19442419.jpg表題:事実の映像

2-1 我々は事実の映像をこしらえる。

2-11 映像は論理的空間における状況を表現する。映像は、字体の成立、不成立を表現する。

2-12 映像は実在の「ひな型」である。

2-13 映像の中では、映像の要素が、対象に対応している。

2-131 映像の中で、映像の要素は対象を代表している。

2-14 映像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。

2-141 映像は一つの真実である。

2-15 映像の要素が一定の仕方で互いに関係することは、事物がそれと同じ仕方で互いに関係していることを表す。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

ついに映像そのものが言及されるようになってきた。これらを写真に投影して考えてみると、写真についてよく言われる「写真は芸術か記録か」という話が意味を成さないものであるかのようにも思われる。
しかし、その「写真は芸術か記録か」という話は写真の帰属性(芸術に属するか、記録に属するか)に関するものであって、写真という存在そのものを考察しているものではない。
そういった点からも、時にはこのヴィトゲンシュタインのように映像そのもの(=写真そのもの)について考えてみる必要もあるのではないかと思われる。

まず、2-1 我々は事実の映像をこしらえる。に関してであるが、これは我々の映像製作、鑑賞の双方を包括した考え方だと言えよう。つまり、我々は事実を映像化することも出来、映像にあるものを事実として認識することもできる。もしくは、それらは事実であるという約束事の上に我々が生活しているということである。この場合、コンピュータグラフィック等を用いた仮想現実も「仮想という事実」という約束事の中で事実化されていると考えるのが妥当だろう。

次に、「2-11 映像は論理的空間における状況を表現する。映像は、事態の成立、不成立を表現する。」を考える場合、まずは「論理的空間」について考えなくてはならないだろう。
これは「1-13 論理的空間の中にある事実が世界である。」があり、「2-012 論理においては、何一つ偶然ではない。もし、ある物が事態のうちにありうるならば、事態のそのような可能性は当の物の中にすでに予定されていたに違いない。」を思い出すことで解決となるであろう。
加えて、これらを映像に置き換えて考察したのがこの節であることを考えれば、事態の成立・不成立を映像が表現すると考えることは充分に理解可能である。そして、それは時に表現しない可能性も含んでいるということを意味している。

「2-12 映像は実在の「ひな型」である。」については我々写真をやっている人間には判りやすい考え方である。写真は実物そのものではないが、その特徴を客観的に、拡大的に捉える(=映像化する)ことが可能であり、それを他の者に提示し、共感を得ることが可能なのだから。
それらのために「2-13 映像の中では、映像の要素が、対象に対応している」や「2-131 映像の中で、映像の要素は対象を代表している。」という構造が求められる。
これを具体化したのが「2-14 映像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。」という考え方に発展するのだろうが、これは大変判りやすい。

「2-141 映像は一つの真実である。」というのは「2-11 映像は論理的空間における状況を表現する。」の循環のように思えなくも無い。また、何故これが「2-14」に繋がっているのか、今ひとつ私には理解できていない。これは単独でも成立できるように思えるのだが・・・
というのも、「2-15 映像の要素が一定の仕方で互いに関係することは、事物がそれと同じ仕方で互いに関係していることを表す。」という節は、まさに「映像は一つの真実」に関しての解釈や対応のように思えなくない。
(今日も全体的に写真のような写真でないような解釈)


Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-04-13 19:45 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-04~06

c0039094_0322710.jpg表題:実在 事態の不成立

2-4 成立している事態の全体が世界である。

2-5 成立している事態の全体は、いかなる事態が成立していないかということをも決定する。

2-6 事態の成立・不成立が実在である。(我々は事態が成立していることを「プラスの事実」と呼び、事態の成立していないことを「マイナスの事実」と呼ぶ)

2-61 事態は互いに独立している。

2-62 ある事態の成立ないし不成立から、他の事態の成立ないし不成立を推論することはできない。

2-63 実在の総和が世界である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

ここで思い出したいのは
1   世界は、成立している事柄の全体である。
1-1  世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めに過ぎない。
1-11 世界はもろもろの事実によって規定されている。
   さらにそれらが事実の全てであることによって規定されている。
である。
つまり、ここでは成立している事柄の一側面である事態の確認と、不成立を容認している。
その結果、個々の事態が独立しつつも「2-03 事態のうちで対象は、鎖の輪のように、相互に組み合わさっている」という関連性を確認できるという論旨なのだろう。
ここで重要になるのは「事柄」と「事態」の区分なのかもしれないが、これらは可分にして非可分な存在であることが想定される。そのことを「実存」という言葉で表現しているのだろう。

これらは写真的に考察するならば、私達は眼前に展開する世界を撮影することも出来れば、撮影しないことも出来るということに似ているような気がする。
そして、眼前に展開する世界と自身は非可分なのである。これらの総和が世界(=我々個々の世界にして我々全員の世界)を構成していると考えられる。
(今日は全体的に写真のような写真でないような解釈)

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-04-02 00:33 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-02~03

c0039094_2149594.jpg表題:事態の構造と形式。

2-0271 対象とは、不動のもの、存続するものである。対象の配列は、変動するもの、移ろいやすいものである。

2-0272 対象の配列が事態を構成する。

2-03 事態のうちで対象は、鎖の輪のように、相互に組み合わさっている。

2-031 事態のうちで対象は、特定の仕方で交互に関係する。

2-032 事態のうちで対象が結合する仕方が事態の構造である。

2-033 事態の形式とは、その構造の可能性である。

2-034 事態の構造は、いくつかの事態の構造によって構成されている。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

ここでも循環的展開が行われていることに気が付く。しかし、その循環的展開はヴィトゲンシュタインの親切心に起因していることを忘れてはならない。もっともソレはヴィトゲンシュタインの探究心に起因しているといっても良いだろう。
もう一つ言うならば、哲学の分野では「定立」、「反定立」、「総合」という考え方のプロセスがあるという。これはどういうコトかというと、ある仮説(定立)に対して反対の立場から考察(反定立)し、それらを含めて(総合)して考察するというものである。
これらを言語化、体言化すると一見すると矛盾したようにも見えるし、離れて見れば「循環的展開」と思えるコトなのだが、これは道徳の時間に教えられた「相手の立場に立って考えなさい」というコトにも似ているのかもしれない。
いずれにしても、思考のバランスを取る上でも大変に重要なコトだと思う。

さて、これもまた写真的に解釈してみたい。

目の前に展開する現実は常に変化しているにも関わらず、撮影した写真に残されたものは不動であり、存続する。Yes,それはまさに現実と写真の関係だと思う。(2-0271に対する写真的解釈)

2-0231にて半泣きしました通り、対象の配列・配置無くして写真は成立しませぬ…(2-0272に対して再び写真的半泣き…:笑) 

事態の構成様式を検討している箇所だと思われる。原文において「鎖の輪」と表記しているかどうか判らないのだが、「網の目のように」といった解釈が適切なのだと思う。しかし、「鎖の輪」という言葉の選択の方が緊密性、強固な物を連想するには適しているのだろう。(2-03に対する写真的ではナイ解釈)

そして、2-031~2-034に対する解釈のユルさというか含みを持った言及が何とも人間的で心地良い。「特定の」という言葉を用いて厳密な相互関係を指摘しておきながら、その一方で「可能性」という不確定要素を認めており、事態の構造という結論に対して、それらを構成する要素に依存しているという人間生活の温かみ、不思議さを容認している。

写真にしてもそうではないか。何人かのグループで撮影するにしても、撮影する瞬間というのは決して同一の物でもなければ認識の相異もある。そして、プリントを作製する場合に於いても個々の認識が反映される。

これらは客観的に見れば同一の事象に対する撮影という「特定の仕方で交互に関係」であり、「対象が結合する仕方が事態の構造」なのだが、個々の解釈というのは「事態に関する構造の可能性」に対する形式であり、また、鑑賞者に於いても「構造の可能性」を許諾していることに他ならない。

これを撮影者と鑑賞者の立場に於いて合理的に解釈するならば、まさに「事態の構造は、いくつかの事態の構造によって構成されている」という広範かつ厳密な定義に帰結するのだと思われる。(2-031~2-034に対する写真的解釈…というか納得)

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-03-27 21:56 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-02

c0039094_2051499.jpg表題:世界の実体としての対象。

2-02 対象は単一である。

2-0201 複合的なものに関する陳述は全て、複合的なものの構成要素に関する陳述と、その複合的なものを完全に記述しているいくつかの命題とに、分解することができる。

2-021 対象が世界の実体をつくる。それゆえ、対象は合成されたものではありえない。

2-0211 世界が実体を持たないとしたら、命題に意味があるか無いかは、他の命題の真偽に依存することになるであろう。

2-02122 そのとき、世界の真ないし偽の映像を描く事は不可能であろう。

2-022 現実といかほど異なった世界を想像したところで、その世界もまたあるものー1つの形式―を現実世界と共有せねばならぬ。これは当然である。

2-023 この不動の形式は、まさに対象によって作られる。

2-0231 世界の実体は形式を決定することができるのみで、実質的な性質を決定することはできない。なぜならば、実質的な性質は命題によって初めて叙述されるー対象の配列によって初めて構成されるーのだから。 後略

2-024 実体とは、成立している事柄と無関係に存立するものである。

2-025 実体は形式ならびに内容から成る。 後略

2-026 対象の存在するときに限り、世界にも不動の形式が存在することができる。

2-027 不動のもの、存続するもの、及び対象。これらはみな同一である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

「論理哲学論考」の第ニ節の続きである。写真に置き換えて解釈する前に、この時点でヴィトゲンシュタイン自身の中で循環的展開が行われていることに気が付く。
例えば、1の「 世界は、成立している事柄の全体である」に関して「実体=成立している事柄」と考えるならば、2-0211にある「世界が実体を持たないとしたら」という仮定すら成立しないことになる。それゆえ、「命題に意味があるか無いかは、他の命題の真偽に依存することになるであろう」という展開は生じ得ないこととなる。
しかし、ヴィトゲンシュタインの用いている「実体」と「事態」と「実体」の使い分けを考察するならば、それらは決して同一ではない。すなわちそれは1-2の「 世界は事実へと解体する」ということであり、2-01の「事態は対象―事物、の結合であるー」を経て2-021の「対象が世界の実体をつくる」という論旨に展開するのだろう。
こうした言葉の使い分けの巧妙さは2-0231において「性質」という言葉を選択していることにも伺える。
というのも、心理学的に考えた場合に「性質」と「性格」は近似しているが明確に分離して考えられる構成要素なのだ。大雑把に言えば、生来持っている「性質」に社会的影響等によって構築される「性格」ということなのだが、この言語的区分によって2-0231の「実質的な性質は命題によって初めて叙述されるー対象の配列によって初めて構成されるー」という論旨が成立するのだから。

さて、今日もこれらを写真的に解釈してみたい。

複合的な構成要素である事実をカメラという一つの客観的視覚を通じることで我々の視線は単一の対象に集約もしくは投影することによって画面を構成を行う。(2-02に対する写真的解釈)

複合的構成要素に関する陳述および記述はすなわち一つのイメージにして結果である画像(プリント等)として考えられる。(2-0201に対する写真的解釈)

基本的に一発勝負である銀塩写真に於いては展開した対象によって構築されたプリントは一つの事実であり、世界の実体の一つである。一方、ディジタルにおいては銀塩に対して「合成」が容易である。これがディジタルをヴァーチャルなものと考える要因の一つなのではないだろうか。(2-021に対する銀塩派の独善的解釈)

銀塩であれディジタルであれ、実体が無いのであれば撮影することができず、それらを構成する「命題」が真偽であるかすら判断することはできない。(2-0211と2-0212に対する写真的解釈)

想像、そして創造するにしても何らかの撮影された素材(現実世界によって作り上げられた素材)を用いなくては(共有しなくては)ならない。ハイ、当然だと思うデス。(2-022に対する写真的解釈&苦笑)

ハイ、対象無くては成立しませぬ…(2-023に対する…写真的苦笑)

ええ、対象の配列・配置無くして写真は成立しませぬ…(2-0231に対して写真的半泣き…:笑) 

銀塩を用いたコラージュやディジタルによる画像加工の容易さは成立している事柄と時に無関係に存立することが可能です。(2-024に対する写真的可能性を含めた解釈)

そして、これらの構成要素と可能性を内包することで「写真」という「形式」や「世界」が成立することが出来る。この時、銀塩もディジタルも「同一」なのである。(2-025、2-026、 2-027に対する写真的解釈)

ふぅ…

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-03-18 20:05 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2、2-01

c0039094_2226028.jpg表題:事態・対象・論理的空間

2 与えられた事柄、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならない。

2-01 事態は対象(事物、物)の結合である。

2-011 事態の構成要素となりうるということは、物にとって本質的である。

2-012 論理においては、何一つ偶然ではない。もし、ある物が事態のうちにありうるならば、事態のそのような可能性は当の物の中にすでに予定されていたに違いない。
 (以下、2-012系の考察は2-0124まで展開する)

2-013 いかなる物も、いわば可能な事態の空間にある。私は、この空間が満たされていない場合を想像することができても、この空間の中に無い物を想像することはできない。

2-0131 空間的な対象は、無限の空間の中に位置しているにちがいない。(空間の点は、独立変数と見なされた場所である) 後略

2-014 対象は、あらゆる状況の可能性を含み持つ。

2-0141 対象が事態の中に現れうる可能性が、対象の形式である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

「論理哲学論考」の第ニ節である。今回もまた写真に置き換えて解釈してみたい。

事態の結合が写真の画面を構成することができる。(2-01に対する写真的考察)

客観的に見れば事態の構成要素として事物や物の存在を認めることは可能だが、私観的ツッコミを入れるならば、物事の本質の一側面ではないか?いやしかし、その一側面すら物事の本質に内包されている存在だと解釈するならば、そのツッコミは成立しないか…(2-011に対する写真的考察による反論&失敗:笑)

文字通り、論理においては常に整合性が成立するだろう。現場に居る事が出来たから撮影することが出来た写真というのは予定調和の要素を持っているのだろうが、たまたま、本当に偶然居合わせて遭遇し、その時カメラを持っていて、フィルムが入っていて、撮影状態にあったという事例は予定調和の中に入るのだろうか?というツッコミは実は2-0124で「すべての対象が与えられたならば、それとともにすべての可能な状態も与えられている」ってトコで逃げられちゃう…ズルイなぁ、もう!(2-012に対する写真的考察&またしても失敗:泣)

空虚な空間を想定することは出来るのだが、何が足りないのかは想定できないという事だと考えれば、撮影する時に「何かが足りない!」といってシャッタを切る時に躊躇する事態に似ているような気がする。(2-013に対する写真的考察)

写真における被写界深度の概念を反映させると充分に理解できるような気がする。仮の合焦点を想定し、そこに被写界深度を反映させることによって抽出できる事態は独立にして連続を期待できるものだと思うから。(2-0131に対する写真的考察)

2-014、2-0141に関して言えば、これは論理の循環だと思われる。つまり、眼前に展開する事態の認識は自身の視線と考察によって得られるものであると同時に、その認識と視線の設定方式によって如何様にも変化する(=個々人に置いて変化する)要素を持っており、そこに機材的側面を加味すれば、撮影会や撮影旅行で同じ対象を多数が眼前にしていたとしても出来上がってくる写真は何一つ同じ物が無いということを逆説的に証明しているように思える。(と、強引な結び)

いやぁ、あたしゃヴィトゲンシュタインにカメラ持たせて、一緒に撮影に行った帰りの現像待ちの時間にお茶飲んで、上がって来たプリント見ながらオサケ呑みたいなぁ。
なんて妄想を逞しくしてみたりするのでした。

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-03-14 23:15 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 1

c0039094_21365682.jpg表題:世界は、論理的空間における事実の総和である

1   世界は、成立している事柄の全体である。

1-1  世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めに過ぎない。

1-11 世界はもろもろの事実によって規定されている。
   さらにそれらが事実の全てであることによって規定されている。

1-12 なぜなら、事実の全体は、いかなる事柄が成立しているかを想定し、
   そしてまた、いかなる事柄が成立していないかをも規定するから。

1-13 論理的空間の中にある事実が世界である。

1-2  世界は事実へと解体する。

1-21 どの事柄も、成立することができ、あるいは成立しないことができる。
   そして、その余の事柄は、すべて同じままでありうる。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

私の好きなL.ヴィトゲンシュタインが記した「論理哲学論考」の第一節である。
「論理哲学論考」は哲学書だと思われている向きもあるようだが、私はこの一連の文章は大変興味深いエッセイだと考え、楽しく読んでいるというのが実状である。
そして、写真を考えるにあたって大変有効な示唆が含まれているというのが実感である。
例えば、上に紹介した論理哲学論考の第一節、つまり初心(所信?)表明からしてこうなのである。
つまり、世界という大きな存在は厳然として存在しているにも関わらず、1-13や1-21にあるように受け止める側の認識(論理的・合理的解釈)によって成立しているのだが、それらは成立することもでき、成立しないこともでき、もしくは同じままで推移することも可能なのだ。
これらは矛盾しているようにも見えるのだが、写真に置き換えてみると大変興味深い。

カメラを構えた私達の目の前には事実が展開している。(1-1に対する写真的考察)

展開している事象が無くては撮影できない。(1-11に対する写真的考察)

それら事実の成立を捉えるために技巧を駆使する。(1-12に対する写真的考察)

その結果得られる世界が写真となることが出来る。(1-13に対する写真的考察)

上に同じく、写真という客観性を持った事実を得ることが可能になる。(1-2に対する写真的考察)

しかしながら、私がカメラを向けなければ写真として存在することも、存在しない結果となるのだが、それらは単に私がカメラを向けなかっただけで、眼前に展開していた事象を否定することには直結しない。カメラを向けた事はカメラを向けなかった事象に内包されている一側面に過ぎないのだから、厳密に言えば全ての事象は同じく展開しているのではないだろうか。(1-21に対する写真的考察でありながら強引な反論)

ヴィトゲンシュタイン自身、後に「論理哲学論考」は間違いであったと言っている。
それは世界を規定しようとしつつ、「その余の事柄は、すべて同じままでありうる」という不確定要素と矛盾を内包していたからだと考えている。

自己の視線と思考で世界を捉えようとしたヴィトゲンシュタイン。
そして、それを自ら間違いであったと認める姿勢。
これこそが私がヴィトゲンシュタインに魅せられる姿勢であり、「論理哲学論考」を至玉のエッセイだと思う理由である。

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
[PR]
by coopiecat | 2006-03-11 21:40 | 論理哲学論考