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料理すること 2

c0039094_22513097.jpg私は玄海灘に面した九州の生まれデス。
食文化に関して言えば、九州系日本海側食文化圏です。

そんな私が現在住んでいるのは関東の内陸気味、ま、太平洋側に近い場所ですが、関越自動車道に程近い場所ということもあり、新潟系の日本海の海産物を扱う専門店があります。

そこで購入したのが「ブリ」です。

ご存知の方も多いと思うのですが、日本の食文化の一つに、新年に「鮭を贈る」か「ブリを贈るか」という違いがあります。
この文化圏の分かれ目がドコになるのか判らないのですが、西日本、何より日本海側の人間にとって「ブリ」は特別な存在デス。

んな事はさておき、昨日買った「ブリ」ってのは、いわゆる「ブリカマ」です。
昨日のうちに軽く塩を振ってシメておき、今日塩焼きにして食しました。

これがもう…言葉に出来ません…。
調子に乗って一対(カマ2本)を一気に食しました。
200円でこんなに楽しめるなんて…ありがたい、ありがたい。

とはいえ、そろそろブリのシーズンは終りです。
とても幸せな時間をくれたブリ君に感謝。

次は、アジの時期かな?
九十九里のアジ…湘南エリアのアジ…。
海の近くの「何でもない定食屋さん」で食べるアジが美味しいんよね。

と、色々な事を考えながら、色々な理由をつけながら、海に行きたくて仕方ない私なのデス。


Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

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by coopiecat | 2005-04-30 23:23

写真展に行きました 3

今日、私の高校の後輩にして大学の後輩である米倉裕隆が撮影した作品が展示してある展示会(idol momoko DOLL exhibition at LOGOS GALLERY / 会期は 5月09日まで、 場所は渋谷パルコPart1地下一階)に行ってきました。(ちと特殊な写真展?デス)

彼との出会いは、高校の写真部でした。
彼は一端入部したものの、当時の私(部長orキャプテン)の強引な部活運営に疑問と不満を感じて短期間で退部。

見どころのあるヤツと思っていただけに、自分に原因があるとはいえ退部したコトが許せずに、その後は廊下等で見かけても目もあわせない、口もきかない間柄に。

その後、私が大学に合格して卒業間近、たまたま廊下で出合った時、彼は私の目を真っ直ぐに見て立ち止まりました。

男子校の場合、このシチュエーションは「一勝負始まる」というコトを意味します。
そうでなくとも血気盛んな年頃の九州の男が3000人集まっている学校ですから、「一勝負」は日常茶飯事。

「ケジメつける時が来たな」と思いつつ、「彼には私を殴る権利がある→殴らせる→私は(最初は)手は出さない。」と身構える私。

睨み合う緊張した時間が流れる…

不意に、彼は目をそらすことないまま、「俺、先輩が行った大学行きますから。」と短い言葉を発すると一礼して立ち去りました。

私は焦り、「おぉ」と答えるのが精一杯で、全身の筋肉が弛緩すると同時に、心の中に強い痛みと、言いようの無い嬉しさが混ぜこぜになった、痺れに似た感覚がジリジリと全身を支配してゆくのを感じました。

それから数年後・・・

朝日の眩しさに目を細めながら、学科棟に向かう途中にある薄暗い渡り廊下を横切る時、逆光の明暗差に視線を戸惑わせている私の目の前に彼のシルエットが飛び込んできました。

混乱する視線の中、目の前に展開する事態が把握できそうで出来ないまま、色々な思いが一気に胸に込み上げて来る中で、やっと搾り出すように「おい…ヨネ…か?」と問う私。

不意の呼びかけにも関わらず、彼は笑顔で振り向きました。

「先輩、来ましたよ」
「お前、本当に来たのか…来たんだな!」

それが再会の始まりで、それから年に数回顔を会わせるようになりました。

そして今日、会場に足を運んだものの彼は仕事で不在でした。

伝言を残しがてらスタッフの方と話をしていると、「米倉さんは、友達にならないと撮ってくれませんからねぇ・・・」と。

真っ直ぐで、正直で、本気で取り組む姿勢。あの時と変わってないな…。
あの時イヤな思いをさせたにも関わらず、今でも「先輩」と呼びかけてくれる…。
彼にはかなわないや…。

会場を後にして駅に向かう道すがら、そんな事を思い出しながら一人ニヤニヤしてしまったのでした。

(今日は写真ナシ!)
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by coopiecat | 2005-04-29 04:17

思考の行方

c0039094_227194.jpg
「連載形式にしてみる」なんてコトを言いつつ、ここのところナゾな話を展開しすぎました。
ワケワカラン話にお付き合いいただきました方々、また、コメントを頂きました方々に感謝いたします。

結局のところ、「思考の行方」というのでしょうか、「で、考えたところで何がしたいの?」というのが明確になっていない結果、10年以上も「あ~でもない、こ~でもない」と考え、推敲するたびに自分の考えに疑問を生じ、そして書き直し、更なる時間をつぎ込んでいる。
今回の展開でも、過去の原稿(のようなもの)を見直しては修正しつつ掲載してマシタ。

思えば、「写真について」を深く考えている時、私は写真を撮っていないのです。
もしくは、自分が納得行くような写真を撮れていない。
だから、そのイイワケをするかのように写真について考えている。

感性が鈍っている時に理性が目覚めている?
あはは…ソレはイイワケの上塗り。(笑)

考えることに行き詰まると、写真を撮りに行きたくなります。
いや、「写真を撮りに行く」というか、「何も考えずカメラを持って遊びに行きたくなる」というのが適切かな。
(そして、「何でそういう行動に出たのか?」という無駄な考察のネタとなる)

しかーし!
いざ外出するとなると、「どのカメラ持っていこう…」と迷い始めてしまったりするのデシタ。

いっそカメラを持たずに…いや、そいつぁムリだな・・・。


Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
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by coopiecat | 2005-04-26 22:27

表現することについて 5

c0039094_20275718.jpg写真を撮るときまず、行動から考えた場合の第一歩として我々が写真を撮影するそのとき、まずは機材を手にとる。実はこの機材の選択という段階からその人の表現行為は始まっている。というのも、カメラという目とフィルムという頭脳を持った時から、機材は一個人の延長として、そのアイデンティティーを確立すると同時に私達と共にあると考えられるからだ。

カメラの能力、フィルムの能力に我々は信頼・期待しているわけで、その能力を最大限に活かす方法で撮影を行なうということは自己の能力を最大に利用して制作にあたることに近似した行為である。

ただし、その行為において、指定の感度を最大限に利用するというのではなく、ただ単純に指定された感度で、自分の意志で絞りやシャッタースピードを設定、もしくはファンクションキーを操作しないで、言われるがまま、カメラの言うがまま、委ねた場合には何の意義も持たずに、ただ漫然と事象を捕らえる感性と同じで、それは感性というよりもぼんやりと外を眺めているに過ぎない。

このように表記するとマニュアルカメラを使わなくては作品の制作が不可能であるかのように単純に捕らえられるかもしれないが、ダンサーにおいては自己の身長や腕の長さ、指先での表情まで気を配ることから初めて自己の肉体による表現を可能とするように、たとえ自動機構を持つカメラを使用した場合においても、正しく理解した上で操作することで、煩雑な操作を省ける分、表現に没頭することが可能となり、そうすることで操作という作業から開放され、より精神に直結した表現が可能になるとも言えよう。

カメラやフィルムを選択する場合、撮影の対象が明確な場合にはある程度の経験などによって条件が限られることもあるが、何はともあれ最大限の能力を引き出せる準備を行なわなくてはならない。その「最大限に引き出す準備」は表現のための準備段階であることを考えるならば、手を抜くことはできない。

一方、状況が刻一刻と変化する外での撮影の場合には、途中でフィルムの交換をすることは可能であっても、現像における操作で自分の表現したいと考えるプリントの許容を考える限界の線を考慮に入れて、最大限に操作する段階で、その行為は撮影技術から創作の行為に変貌する。この創作という自己の判断に基づく「行為」が介在する以上、写真が芸術たりえる一つの証左と考える所以である。


作成中の「写真と芸術」(仮題)より抜粋

Kodak DX6490 Digital Camera
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by coopiecat | 2005-04-24 20:28

表現することについて 4

c0039094_2241793.jpg表現という行為について考えてみると、その手段というのは音声、言語、身振り等々とその手段はいく通りにも挙げることができるが、共通しているのは「自分の意志の表明」ということに帰結する。いわゆる自己表現という言葉が表現そのものを意味しているのであり、日本語にあるように表面に現わす行為を言う。

次に考えなくてはならないのは、何のために自己を現わしているのかということになるのであるが、そこに現われているのは表現者である存在自体ではない。表現者はそこに存在していることによって再度現わす必要性はないのであるから、表現に至る課程においては表現者においてもっと別個の目的意識が介在していると考えられる。

その目的意識というのは、表現者自身の思考や考えを他者に知らせたいという目的で、自分にとって適した、もしくは自分に可能な手段を伴って具現化することが目的意識という形で現われてくるのではないかと考えられる。

一方、その表現という行為は他者にとってのみならず自分自身に対しても行なわれているというのは興味深い事実である。外から見れば他者に対して行なっている表現するという行為が、実際には表現を行なっている本人にとって自己の再確認をするための手段として表現を伴っていることがあるということである。

この、一見すると相反する行為は表現という一つの行為に共存しているものであり、表現という行為は他者に対して行なうと同時に自分自身に対して行なっていると考えられるのであるが、果たして他者と自己との間には共通する項目があるのか、もしくは、純粋に他者に対する表現とは別個に自分自身に対する表現というものも存在しているのかという疑問も生じてくるのである。
哲学で言うところの自己の中に存在する主体と客体という存在があるのならば、心理学的に解釈するならば、主体が先天的に存在している性質であり、後天的に発生する性格は客体として考えることがこの場合には可能であると思われる。

主体たる性質は、表現活動を行なう際に社会における規範や規律といった一切を無視してその発露を見出だし、なんらかの手段を借りて表出することとなり、また、深層にある自分の精神を発露させるためになんらかの手段を用いる。このことが表現という行為として考えるならば、表現という行為はすなわち自分の中における主体以外の客体すらをも始めとする外界に対して行なっている行為と捉えることが可能となる。

もっとも、この中に出てくる客体およびそれと同列に扱っている性格は外界から受ける影響によって形成されるものであるという解釈から、自分を取り巻く他者および世間における規律や調和といったものと同列にしているわけであり、厳密には同列として扱うことはできないのかもしれない。


作成中の「写真と芸術」(仮題)より抜粋

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by coopiecat | 2005-04-22 22:44

表現することについて 3

c0039094_23315176.jpg写真を撮ってからは、技術を駆使して自己の記憶をよりリアルに再現するという行為、つまり表現のための行為が待っている。

自分の記憶というのは言いなおす迄もなく自己のものであり、自分が見たもの、感じたものは完全に自分の中にのみ内包されており、表現の前の段階である再現という課程を経るうえでは必要不可欠な動機である。その自己のイメージに近付けるための技術はあくまで技術という独立した枠組みの中に存在する行為ではなく、一貫した思考を持続するための操作である。撮影の時と同じ「自己の意志に基づく操作」が継続されることが創作の持続には不可欠な要因である。

もっとも、カラー写真やリバーサルフィルムを使用した場合には、その操作が容易ならざる場合もあるが、この技巧的に容易ならざる事態に関しては、その操作が容易ならざるものであるという自覚に基づき、その前の段階-つまり撮影の段階-において操作を加えることが可能である。もっとも、「色」に関しては存在に、その「色」の持つイメージが複合的な要因を加える可能性が非常に高いので、汎用性がありそうではあるが、その許容の範囲が複合的ゆえに広域になることから、逆に条件として狭めるという危険をもはらんでいる。

一方、黒白写真に関して言えば、全ての色彩が黒と白の階調に置き換えられるという極めて厳しい条件下に置かれるようにも捕らえることができるが、その分、鑑賞する側は経験値に基づいて色彩の無い世界に色彩を与えて考えることも可能であり、まったく逆に色彩を排除することで純粋に光の存在や、光がもたらす作用を享受することが可能になるという許容の幅を、鑑賞する側の人数と同じ数だけ無限に広げる可能性を考慮に入れるならば、有限ではありながら無限の可能性を内包していると考えられる。

ここで簡単な実験をしてみよう。準備するのはパソコンと、画像処理ソフトで、カラーで撮影した写真を、グレースケールに置換してみよう。すると、何かが失われ、何かが表出すると思う。その差異こそが色彩の持つ「何か」であり、展開する「何か」と考える事ができるだろう。
(なお、黒白写真はYMCなりBGRに染め上げた透過画像を作成して重ね合わせ、擬似カラー写真を作製するという方法もあるが、とても難しくて、出来上がっても違和感が大きいだけのものになる可能性が高いので、純粋に比較対象とはならないだろう。)

ここでは「色彩」が中心になってしまったが、色彩は光の波長域という事をふまえるならば、重要なのは光に集約されると言えよう。そうなると、表再現する際の重要性の一つが光と言えるのではないか。

もちろん、写っている内容から受ける連想やイメージも重要なキャプターではあるが。

作成中の「写真と芸術」(仮題)より抜粋

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Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
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by coopiecat | 2005-04-21 23:35

表現することについて 2

c0039094_175958.jpg写真が発明された当初、ホントに当初の段階では、8時間シャッターを開けていなくてはなりませんでした。
それが、写真術の発展につれて数十秒から数秒に短縮されました。

しかし、写真を写すための材料(現在で言うトコのフィルムに相当する)は撮影者自身が製作しなくてはなりませんでした。

1900年頃になると、工業製品としての感光材料(現在で言うトコのフィルを含む)が一般化し、瞬間的に撮影することが可能になりました。

撮影の許容範囲が増大することで、「アマチュア」と呼ばれる写真愛好家が生まれ、写真は急速に広がりを見せました。それは技術的だけではなく、表現の範囲も広まったと解釈できます。
   (中略)
1970年代に入ると、写真に必要とされる露出調整やピント調節を中心とした技法の多くがカメラ側で調節可能になりました。
この展開により、人々は一層、個々のイメージに近い写真を撮影することができるようになりました。写真が人々の視線や思いに、一層近付いたといえるでしょう。
   (中略)
1990年代後半、日本では「プリクラ」というものが流行。自分達の姿を撮影し、友人達と交換するという行動が展開しました。
これは19世期末に流行した「カルト・ド・ヴィジト」(名刺写真)と同じ用法と言えます。これを「歴史の繰り返し」と断じる事、または「世紀末への不安感」と発展・考察することも可能ですが、それよりも逼迫した何かを感じました。

2000年前後、写真は銀塩からディジタルへと主流が移行しようとしました。
撮影者が自らの手で加工することも、配信することも、銀塩の時代に比べて、個人レベルで容易になりました。

その一方で、現状のディジタルカメラの場合には起動時間や撮影時間の関係で、銀塩の数倍以上の時間を要するようになりました。端的に言えば、動きが止まった。

しかし、先に述べたように、撮影した画像の呼び出し、加工、配信という点は飛躍的に発展し、表現の領域も拡大したと言えます。

そうした技法の過渡期に居る私達は、今一度「写真」というものについて考察するのも良いのではないかと思ってみたりするのです。
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by coopiecat | 2005-04-21 01:37

表現することについて (今日も長文)

c0039094_2154783.jpg「多くの方の御意見を賜りたく存じますので、最低一週間は更新をしない予定にしております」なんて言っておきながら、自分自身が煮詰まって一週間待てなかったり…

「表現すること」ですが、このテーマは、芸術全般の古い課題である「職能者(アルチザン)なのか、表現者(アーティスト)なのか」という点に帰結します。

私がこの点に関して写真を媒介にして強烈に感じるのは、先にも触れたように「写真とは、撮影者が現場に居なくては撮影できない」という点は否定できない現実と、そこに機材や現像処理という「超客観視」が存在していることに他なりません。

職能者の場合、私観を捨て、客観であるかのように個人の視線を置き換える、取捨選択するといった事が求められます。そのために、機材や現像処理という「科学」が本来持っている「超客観性」及び再現性を活用します。

表現者の場合、私観のために機材の選択や、現像を始めとした加工処理などなど、科学をも用いるという展開を行います。

これらは一見すると背反する存在のように思えますが、「手段が目的」になっていたり、「目的のための手段」であると考えた場合、突き詰めれば同一根源のものと言えなくはない。

加えて、「他者の目に触れる」という点では、経過の相異こそあれ、やはり結果的には同一のものと考えることができるのではないかとも。

そこで大変迷ってしまうのです。
「じゃ、何やってるのか?」と。

私は「何か」を求めている。
私は「何か」を伝えたい。

私は…その「何か」を、写真を通じて知りたくてたまらないのです。

次なる展開(またも大きな飛躍!)ですが、「誰に伝えたいのか?」になります。

多分…それは、誰にでも良いんです。

って言うと随分投げ槍な言い方ですが、表現する事で自己の存在意義(アイデンティティ)を見出し、少数でも良い「誰かしら」に共感して頂くことによって、例え錯覚でも良いから自今の存在意義を確立できることによって得られる安心感を得たいのではないかと。

批判されたって構わない。
批判されるってことは、自分が存在しているからこそだから。
(身勝手なネガティブなポジティブ思考やね:笑)

そして、そこに「時間」という不可避な現象を利用して「共通の美意識」とか「共有する時間」なんて言い回しをして他者に依存している自分が居たり。

イヤですね。まったく。
(って、自己卑下することで存在をアピールしてるね…って客観視するコトで自分自身で自己の存在を再確認しようとしてるね…)

でも、更なるイイワケに聞こえるかもしれないのだけれど、多くの表現者、友達の方々、全ての方に感謝しているのはホントだよ。

「ありがとう」って月並みな言葉しか言えないけれど、多くの方に触れ、刺激を受けさせて頂くことで自分自身が成長させて頂いていることを実感してマス。

う~ん、何書いてるんだか自分でも判らなくなってしまいました。
ダラダラした長文を読んで下さった皆様に感謝!

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
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by coopiecat | 2005-04-19 22:02

写真展に行きました 2

c0039094_23194723.jpg今日、私の友人である松井洋子さんの写真展「風知草」を拝見するため、新宿の「Place M」というギャラリー(http://www.placem.com)に行ってきました。
彼女は植田正治氏を慕い、弟子入りして写真を学んだ経歴を持っている方です。今回出展されている作品の中には、その時期のものもあります。

今回もそうですが、いつも写真展を拝見して考えるのは「私達は何で写真を撮るのか?」という疑問というか、命題のようなものです。

写真とは、撮影者が現場に居なくては撮影できない。
その時、撮影者は何を考えるのか。

この疑問を考えるとき、私には一つのシーンが思い浮かばれます。

それは、オーケストラの演奏が始まる時に指揮者が指揮棒を振り上げ、一端動きが止まり、そして、指揮棒を振り下ろす刹那に生じる、演奏者と鑑賞者言いようの無い緊張感と一体感。

それは、今、その時に居合わせている森羅万象の持っている「何か」が一つとなった瞬間なのかもしれません。

その時、指揮者は指揮棒を動かし、演奏が始まる。
その時、私達はシャッターを切り、写真が生まれる。

楽器が空気を震わせ、私達の耳に伝わる。
光が空気を震わせ、私達の目に伝わる。

毎回のように「かなり飛躍した表現」で申し訳無いのですが、何かそんな気持ちになるのです。

では、「表現者としての我々」は何を考え、何をしようとしているのか?
これはまた別の機会に…。

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
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by coopiecat | 2005-04-13 23:36

料理すること

c0039094_23124665.jpg「男子厨房に入るべからず」なんて言葉がありますが、私には「厨房」なんて大層なモノはありませんが、願わくば3食全てを作りたいのだけれど、現状は朝・夕の2食の為、台所に立っています。

さて、先日、ここでも書いていた「お花見会」のために「自分のためだけではない料理」を久しぶり(初めて?)に作製しました。

数日に分けて料理を作製している時に思い起こしたのは、年末になると数日をかけて「おせち」の全てを準備する母親の姿。
私はというと、母の姿を見ながら「ようやるなぁ」と感心しつつアキレてみたり、時には手伝いをしながらツマミ食いをして、作製中の料理に飽きてみたりしてました。

あらためて今回、何かしらのモノを作っている時に「あ、母は集中できる何か(料理)をすることによって日々のストレスを発散していたのかも?」と思い至ると同時に、言いようの無い感謝の念が湧き上がってくるのを感じました。

今年~来年は久しぶりに「お手伝いしようかな」なんて思ってみたり。

うぅむ…私にとって「料理」というのは色々な作用を持っているようデス。

今回、「お花見会」に参加され、私のつたない料理を食していただいた方々には感謝の念で一杯です。
そして、お料理をお持ちいただいた皆様、持ち寄りいただいた皆様に感謝しております。
美味しかったし、何より、嬉しかったな。

(写真は自己規制で持ち出さなかった「ミカンの寒天詰」デス)

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by coopiecat | 2005-04-11 23:30