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ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-02~03

c0039094_2149594.jpg表題:事態の構造と形式。

2-0271 対象とは、不動のもの、存続するものである。対象の配列は、変動するもの、移ろいやすいものである。

2-0272 対象の配列が事態を構成する。

2-03 事態のうちで対象は、鎖の輪のように、相互に組み合わさっている。

2-031 事態のうちで対象は、特定の仕方で交互に関係する。

2-032 事態のうちで対象が結合する仕方が事態の構造である。

2-033 事態の形式とは、その構造の可能性である。

2-034 事態の構造は、いくつかの事態の構造によって構成されている。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

ここでも循環的展開が行われていることに気が付く。しかし、その循環的展開はヴィトゲンシュタインの親切心に起因していることを忘れてはならない。もっともソレはヴィトゲンシュタインの探究心に起因しているといっても良いだろう。
もう一つ言うならば、哲学の分野では「定立」、「反定立」、「総合」という考え方のプロセスがあるという。これはどういうコトかというと、ある仮説(定立)に対して反対の立場から考察(反定立)し、それらを含めて(総合)して考察するというものである。
これらを言語化、体言化すると一見すると矛盾したようにも見えるし、離れて見れば「循環的展開」と思えるコトなのだが、これは道徳の時間に教えられた「相手の立場に立って考えなさい」というコトにも似ているのかもしれない。
いずれにしても、思考のバランスを取る上でも大変に重要なコトだと思う。

さて、これもまた写真的に解釈してみたい。

目の前に展開する現実は常に変化しているにも関わらず、撮影した写真に残されたものは不動であり、存続する。Yes,それはまさに現実と写真の関係だと思う。(2-0271に対する写真的解釈)

2-0231にて半泣きしました通り、対象の配列・配置無くして写真は成立しませぬ…(2-0272に対して再び写真的半泣き…:笑) 

事態の構成様式を検討している箇所だと思われる。原文において「鎖の輪」と表記しているかどうか判らないのだが、「網の目のように」といった解釈が適切なのだと思う。しかし、「鎖の輪」という言葉の選択の方が緊密性、強固な物を連想するには適しているのだろう。(2-03に対する写真的ではナイ解釈)

そして、2-031~2-034に対する解釈のユルさというか含みを持った言及が何とも人間的で心地良い。「特定の」という言葉を用いて厳密な相互関係を指摘しておきながら、その一方で「可能性」という不確定要素を認めており、事態の構造という結論に対して、それらを構成する要素に依存しているという人間生活の温かみ、不思議さを容認している。

写真にしてもそうではないか。何人かのグループで撮影するにしても、撮影する瞬間というのは決して同一の物でもなければ認識の相異もある。そして、プリントを作製する場合に於いても個々の認識が反映される。

これらは客観的に見れば同一の事象に対する撮影という「特定の仕方で交互に関係」であり、「対象が結合する仕方が事態の構造」なのだが、個々の解釈というのは「事態に関する構造の可能性」に対する形式であり、また、鑑賞者に於いても「構造の可能性」を許諾していることに他ならない。

これを撮影者と鑑賞者の立場に於いて合理的に解釈するならば、まさに「事態の構造は、いくつかの事態の構造によって構成されている」という広範かつ厳密な定義に帰結するのだと思われる。(2-031~2-034に対する写真的解釈…というか納得)

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by coopiecat | 2006-03-27 21:56 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-02

c0039094_2051499.jpg表題:世界の実体としての対象。

2-02 対象は単一である。

2-0201 複合的なものに関する陳述は全て、複合的なものの構成要素に関する陳述と、その複合的なものを完全に記述しているいくつかの命題とに、分解することができる。

2-021 対象が世界の実体をつくる。それゆえ、対象は合成されたものではありえない。

2-0211 世界が実体を持たないとしたら、命題に意味があるか無いかは、他の命題の真偽に依存することになるであろう。

2-02122 そのとき、世界の真ないし偽の映像を描く事は不可能であろう。

2-022 現実といかほど異なった世界を想像したところで、その世界もまたあるものー1つの形式―を現実世界と共有せねばならぬ。これは当然である。

2-023 この不動の形式は、まさに対象によって作られる。

2-0231 世界の実体は形式を決定することができるのみで、実質的な性質を決定することはできない。なぜならば、実質的な性質は命題によって初めて叙述されるー対象の配列によって初めて構成されるーのだから。 後略

2-024 実体とは、成立している事柄と無関係に存立するものである。

2-025 実体は形式ならびに内容から成る。 後略

2-026 対象の存在するときに限り、世界にも不動の形式が存在することができる。

2-027 不動のもの、存続するもの、及び対象。これらはみな同一である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

「論理哲学論考」の第ニ節の続きである。写真に置き換えて解釈する前に、この時点でヴィトゲンシュタイン自身の中で循環的展開が行われていることに気が付く。
例えば、1の「 世界は、成立している事柄の全体である」に関して「実体=成立している事柄」と考えるならば、2-0211にある「世界が実体を持たないとしたら」という仮定すら成立しないことになる。それゆえ、「命題に意味があるか無いかは、他の命題の真偽に依存することになるであろう」という展開は生じ得ないこととなる。
しかし、ヴィトゲンシュタインの用いている「実体」と「事態」と「実体」の使い分けを考察するならば、それらは決して同一ではない。すなわちそれは1-2の「 世界は事実へと解体する」ということであり、2-01の「事態は対象―事物、の結合であるー」を経て2-021の「対象が世界の実体をつくる」という論旨に展開するのだろう。
こうした言葉の使い分けの巧妙さは2-0231において「性質」という言葉を選択していることにも伺える。
というのも、心理学的に考えた場合に「性質」と「性格」は近似しているが明確に分離して考えられる構成要素なのだ。大雑把に言えば、生来持っている「性質」に社会的影響等によって構築される「性格」ということなのだが、この言語的区分によって2-0231の「実質的な性質は命題によって初めて叙述されるー対象の配列によって初めて構成されるー」という論旨が成立するのだから。

さて、今日もこれらを写真的に解釈してみたい。

複合的な構成要素である事実をカメラという一つの客観的視覚を通じることで我々の視線は単一の対象に集約もしくは投影することによって画面を構成を行う。(2-02に対する写真的解釈)

複合的構成要素に関する陳述および記述はすなわち一つのイメージにして結果である画像(プリント等)として考えられる。(2-0201に対する写真的解釈)

基本的に一発勝負である銀塩写真に於いては展開した対象によって構築されたプリントは一つの事実であり、世界の実体の一つである。一方、ディジタルにおいては銀塩に対して「合成」が容易である。これがディジタルをヴァーチャルなものと考える要因の一つなのではないだろうか。(2-021に対する銀塩派の独善的解釈)

銀塩であれディジタルであれ、実体が無いのであれば撮影することができず、それらを構成する「命題」が真偽であるかすら判断することはできない。(2-0211と2-0212に対する写真的解釈)

想像、そして創造するにしても何らかの撮影された素材(現実世界によって作り上げられた素材)を用いなくては(共有しなくては)ならない。ハイ、当然だと思うデス。(2-022に対する写真的解釈&苦笑)

ハイ、対象無くては成立しませぬ…(2-023に対する…写真的苦笑)

ええ、対象の配列・配置無くして写真は成立しませぬ…(2-0231に対して写真的半泣き…:笑) 

銀塩を用いたコラージュやディジタルによる画像加工の容易さは成立している事柄と時に無関係に存立することが可能です。(2-024に対する写真的可能性を含めた解釈)

そして、これらの構成要素と可能性を内包することで「写真」という「形式」や「世界」が成立することが出来る。この時、銀塩もディジタルも「同一」なのである。(2-025、2-026、 2-027に対する写真的解釈)

ふぅ…

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by coopiecat | 2006-03-18 20:05 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2、2-01

c0039094_2226028.jpg表題:事態・対象・論理的空間

2 与えられた事柄、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならない。

2-01 事態は対象(事物、物)の結合である。

2-011 事態の構成要素となりうるということは、物にとって本質的である。

2-012 論理においては、何一つ偶然ではない。もし、ある物が事態のうちにありうるならば、事態のそのような可能性は当の物の中にすでに予定されていたに違いない。
 (以下、2-012系の考察は2-0124まで展開する)

2-013 いかなる物も、いわば可能な事態の空間にある。私は、この空間が満たされていない場合を想像することができても、この空間の中に無い物を想像することはできない。

2-0131 空間的な対象は、無限の空間の中に位置しているにちがいない。(空間の点は、独立変数と見なされた場所である) 後略

2-014 対象は、あらゆる状況の可能性を含み持つ。

2-0141 対象が事態の中に現れうる可能性が、対象の形式である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

「論理哲学論考」の第ニ節である。今回もまた写真に置き換えて解釈してみたい。

事態の結合が写真の画面を構成することができる。(2-01に対する写真的考察)

客観的に見れば事態の構成要素として事物や物の存在を認めることは可能だが、私観的ツッコミを入れるならば、物事の本質の一側面ではないか?いやしかし、その一側面すら物事の本質に内包されている存在だと解釈するならば、そのツッコミは成立しないか…(2-011に対する写真的考察による反論&失敗:笑)

文字通り、論理においては常に整合性が成立するだろう。現場に居る事が出来たから撮影することが出来た写真というのは予定調和の要素を持っているのだろうが、たまたま、本当に偶然居合わせて遭遇し、その時カメラを持っていて、フィルムが入っていて、撮影状態にあったという事例は予定調和の中に入るのだろうか?というツッコミは実は2-0124で「すべての対象が与えられたならば、それとともにすべての可能な状態も与えられている」ってトコで逃げられちゃう…ズルイなぁ、もう!(2-012に対する写真的考察&またしても失敗:泣)

空虚な空間を想定することは出来るのだが、何が足りないのかは想定できないという事だと考えれば、撮影する時に「何かが足りない!」といってシャッタを切る時に躊躇する事態に似ているような気がする。(2-013に対する写真的考察)

写真における被写界深度の概念を反映させると充分に理解できるような気がする。仮の合焦点を想定し、そこに被写界深度を反映させることによって抽出できる事態は独立にして連続を期待できるものだと思うから。(2-0131に対する写真的考察)

2-014、2-0141に関して言えば、これは論理の循環だと思われる。つまり、眼前に展開する事態の認識は自身の視線と考察によって得られるものであると同時に、その認識と視線の設定方式によって如何様にも変化する(=個々人に置いて変化する)要素を持っており、そこに機材的側面を加味すれば、撮影会や撮影旅行で同じ対象を多数が眼前にしていたとしても出来上がってくる写真は何一つ同じ物が無いということを逆説的に証明しているように思える。(と、強引な結び)

いやぁ、あたしゃヴィトゲンシュタインにカメラ持たせて、一緒に撮影に行った帰りの現像待ちの時間にお茶飲んで、上がって来たプリント見ながらオサケ呑みたいなぁ。
なんて妄想を逞しくしてみたりするのでした。

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by coopiecat | 2006-03-14 23:15 | 論理哲学論考

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 1

c0039094_21365682.jpg表題:世界は、論理的空間における事実の総和である

1   世界は、成立している事柄の全体である。

1-1  世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めに過ぎない。

1-11 世界はもろもろの事実によって規定されている。
   さらにそれらが事実の全てであることによって規定されている。

1-12 なぜなら、事実の全体は、いかなる事柄が成立しているかを想定し、
   そしてまた、いかなる事柄が成立していないかをも規定するから。

1-13 論理的空間の中にある事実が世界である。

1-2  世界は事実へと解体する。

1-21 どの事柄も、成立することができ、あるいは成立しないことができる。
   そして、その余の事柄は、すべて同じままでありうる。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

私の好きなL.ヴィトゲンシュタインが記した「論理哲学論考」の第一節である。
「論理哲学論考」は哲学書だと思われている向きもあるようだが、私はこの一連の文章は大変興味深いエッセイだと考え、楽しく読んでいるというのが実状である。
そして、写真を考えるにあたって大変有効な示唆が含まれているというのが実感である。
例えば、上に紹介した論理哲学論考の第一節、つまり初心(所信?)表明からしてこうなのである。
つまり、世界という大きな存在は厳然として存在しているにも関わらず、1-13や1-21にあるように受け止める側の認識(論理的・合理的解釈)によって成立しているのだが、それらは成立することもでき、成立しないこともでき、もしくは同じままで推移することも可能なのだ。
これらは矛盾しているようにも見えるのだが、写真に置き換えてみると大変興味深い。

カメラを構えた私達の目の前には事実が展開している。(1-1に対する写真的考察)

展開している事象が無くては撮影できない。(1-11に対する写真的考察)

それら事実の成立を捉えるために技巧を駆使する。(1-12に対する写真的考察)

その結果得られる世界が写真となることが出来る。(1-13に対する写真的考察)

上に同じく、写真という客観性を持った事実を得ることが可能になる。(1-2に対する写真的考察)

しかしながら、私がカメラを向けなければ写真として存在することも、存在しない結果となるのだが、それらは単に私がカメラを向けなかっただけで、眼前に展開していた事象を否定することには直結しない。カメラを向けた事はカメラを向けなかった事象に内包されている一側面に過ぎないのだから、厳密に言えば全ての事象は同じく展開しているのではないだろうか。(1-21に対する写真的考察でありながら強引な反論)

ヴィトゲンシュタイン自身、後に「論理哲学論考」は間違いであったと言っている。
それは世界を規定しようとしつつ、「その余の事柄は、すべて同じままでありうる」という不確定要素と矛盾を内包していたからだと考えている。

自己の視線と思考で世界を捉えようとしたヴィトゲンシュタイン。
そして、それを自ら間違いであったと認める姿勢。
これこそが私がヴィトゲンシュタインに魅せられる姿勢であり、「論理哲学論考」を至玉のエッセイだと思う理由である。

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by coopiecat | 2006-03-11 21:40 | 論理哲学論考

言葉について

c0039094_21352687.jpg私は「言葉」に大変興味を持っています。
それは私の育った環境によるものが大きいと思っています。

父方の親類は九州の言葉を話します。
母方の親類は東北の言葉を話します。

その結果、我家では標準語を話すことになっています。
そして、私は双方の言葉を理解することができます。

友人達は皆北部九州の言葉を話します。
先生方は皆、国語を話しました。

その結果、表面上では標準語と国語で話をします。
しかし、感情が高ぶると北部九州方言で話します。

大学の授業でドイツ語を学びました。
でも、南部系のドイツ語を基準にした先生と、北部系ドイツ語で育った同級生の間に齟齬が生じたのを見ました。

社会人になり、イタリア語を学びに行きました。
シチリア人の先生の先生が話す南部系のイタリア語は、次のクラスで担当したミラノ人の話す中部系のイタリア語とは異なっていたことを感じました。

そして、今はロシア語に興味を持っています。
先生はウクライナ人の素敵な先生です。

初めての授業の時、私はタラス・シェフチェンコの詩集を持参して、ウクライナ語を学びたいと言いました。
その時、先生が一瞬困った顔をしたのを見てしまいました。

先生は、ウクライナ語を学ぶより先にロシア語を学びましょうと言いました。
ロシア語を学んだ後に、ウクライナ語を学びましょうと言いました。

北部九州と東北の言葉で構築された頭を持ちながら日本語で生活している私です。
ウクライナ人の先生の気持ちが少し判るような気がします。

言葉って、とても面白い。
色々な言葉を学び、何語で話すのかではなく、何を話すのかという領域にまで行き着けるとうになれば、きっと素晴らしい世界が展開するのだろうなぁ。

そんな事を考えてみたりしています。


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by coopiecat | 2006-03-08 22:00

ついに発見

c0039094_2183390.jpg
九州を出てからというもの、まるで見る機会が無く、そして探しつづけていた白い花のタンポポを発見しました。

美しさと強さを兼ね備えた雰囲気、とても好きデス。

問題は…携帯で撮影すると色とか雰囲気とか損なわれるんよね。
銀塩で撮影したモノが上手く出来上がると良いのデスが。

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by coopiecat | 2006-03-06 21:12 | 天使

歳を重ねるにあたって

c0039094_22404213.jpg間もなく歳を重ねるにあたり、今の自分の置かれている状況等を考えているうちに、何故か思いは昔へと遡っていった。色々なことを思い出したりしてみたのだが、やはりカメラと時計に関する思い出が沢山蘇ってきた。

それらを教えてくれた指折り数えてみると名前がわかっているだけで13件あって、名前が思い出せないカメラ屋さんを合わせると都合18件が私の活動範囲に存在していた。

それから3件の古道具屋さんがあり、アンティークショップが2件、時計屋さんが3件と1件の時計材料店、それから時計やカメラといった機械物を多く扱う質屋さん3件がその数字に加えられ、合計して30件のお店を思い出した。

これらの店名を全て正確に覚えていないのは単に忘却の彼方に追いやられてしまったのではなく、時にそれは目的地でもあるのだが、あくまで通学や遊びに行く時の途中に存在する30箇所の「カメラ屋」や「道具屋」や、その他のお店であったからに過ぎない。

それは散々通いつめた本屋(駄菓子屋でも良いが)の名前を知らないのと同じである。

何しろ通学でも遊びでも、親と買物に行った合間であっても、外出すれば必ず立ち寄っていたのだから「毎日のように」ではなく、文字通り毎日いずれかの店に顔を出していた。

30箇所の中で今も健在なのは僅かになってしまったが、それらの店に行くと今でも店主は子供のときと変わらない受け入れ方をしてくれる。そして、かつて店があった所に足を運ぶと心が痛む。自分の居場所が失われてしまったような寂寥感と喪失感に耐えられず、その道はなるべく通らないようにしてしまうが、失われた多くの店も私の記憶の中には全て揃っていて、記憶の中の店舗の扉を開けると優しい顔で出迎えてくれる。

思い返してみれば、年に1度程度しか購入能力がない、つまり商売にならない子供がチョロチョロ出入りしては色々な質問を繰り広げて店内に居座っているというのは店にしてみれば迷惑この上ない話だったと思う。
しかし一応客だからということなのか、どの店も一応は丁寧に扱ってくれたことが嬉しかった。

どのお店も店主は長年のノウハウがあり、カメラのドイのような量販店の店員も専門店としての知識と情報が豊富だった。色々と教えてもらい、いわゆる「耳年増」というヤツになっていたが、順列組合せで先の店で得た情報を次の店で実物を見て確認することも可能であった。また、時には生意気にも店員さんに教えたりもしていたのだが、その情報は図書館で読んだ本の中だと良い方で、他の店の店員さんに教えてもらったことだったりしていた。

そして、専門店と非専門店での品物に対する考え方の相違を感じてみたり、品物を見定めるコツを有言・無言で教えてもらったことが現在に繋がっていることを再度確認したりした。
その結果が今日の私であり、明日からの私になるのだと思うと少しく不思議な気持ちになったりすると同時に、何だか温かいものを感じる。

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(写真は今は無きお店で、結果的に友達と争って購入した「ZenobiaC1」というスプリングカメラ)
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by coopiecat | 2006-03-02 22:47