<   2007年 11月 ( 18 )   > この月の画像一覧

まぬけな男の話

「ある朝の出来事」的な感じで軽く書いたつもりなのですが、予想以上の反響があって嬉しくもあり、恥ずかしくもありです。そのうえ、励ましの言葉まで頂戴してしまって・・・。
個別にお返事差し上げるよりも、少々加筆した方が良いと考えました。
それから、あの遭遇は「数週間前」の出来事ではなく、実際には数ヶ月前の話でした。
申し訳ありません。

-------------

まぬけな男のおはなしです。

その時、私は自分では「付き合っている」と思っている人が居ました。
あの遭遇は大変嬉しかったのだけれども、頭の中で「自分には相手が居るのだから近寄りすぎては駄目」という考えが強く働いていました。

さて、神様ってのは意地悪な方のようで、私に遭遇を設定したのと同じように、おそらく同時期に相手にも遭遇のようなものを設定していたようです。

私の「遭遇」から日を置かずして、「付き合っている」と思っている人から「好きな人が出来たから、付き合っているのだとしたら別れてほしい」というメールが携帯電話に届きました。

どうやら「付き合っている」と思っていたのは私だけで、相手はそのように思っていなかったようです。

仮に「付き合っている」と思ってくれていた時期があったとしても、新たな人材と比較検討した結果、私が劣っており不要な存在という結果に到達したことには違いない。

何はともあれ、
付き合っている相手が居ると思っていた事。
何がどうなるかも判らないのに過剰に意識した事。
そんな風に物事を勝手に思い込み、結果として何もかも失ったという話です。

遭遇から数ヶ月。ほぼ毎日、同じ時間の電車に乗っています。
今朝も同じ時間の電車に乗りました。

電車に乗る時、「もしかしたら会えるかもしれない」と時々思いますが、電車を降りるとき「もしかしたら乗っていたかもしれない。だとしたら嬉しい。」と思うに留めています。

信じたところで救われない時もある。
過剰な期待は深い失望を生むだけ。

まぬけな男は、「自分すら信じる事が出来ない」という事を思い知らされたワケです。(笑)
[PR]
by coopiecat | 2007-11-30 12:24

突然の出会いと別れ

就職してから十数年、毎日ほとんど同じ時間の電車に乗り、毎日ほとんど同じ時間に職場に到着。

その不毛な繰り返しの中、いつも地下鉄で乗り合わせる一人の女性に関心を持っていた。
彼女はいつも本を読んでいるのだが、その本を読んでいる姿、内容を楽しんでいる姿が実に美麗なのだ。

彼女は、いつもドアの所に立っている。
私が乗る駅は多くの人が降りる駅で、最初に乗り込めば後ろから向こうのドアに押し込まれ、後から乗りこめば手前のドアに近くなる。
つまり、とても近い距離に立ち会わせる事が多い。

彼女は私が乗る前から乗っており、私が降りた後も乗っている。だから、どこから来ていて、どこで降りるのかは知らない。

朝、いつもの地下鉄に乗ると、足元に沢山の本が入った鞄を置いた彼女が居た。

後から後から人がワラワラと乗り込み、少し離れた場所に立っていたはずの彼女が目の前に居た。

彼女は本を読んでいる。
私も、本を読んでいる。

沢山の人が居るのに、誰にも邪魔されない不思議な空間。

途中、人が半分近く降りる駅がある。
今日も沢山の人が乗降し、私も彼女も押されるようにホームに出た。

電車に乗ろうとすると「次の電車に乗りませんか?」という声がした。
「?」と思って振り返ると、「次の、電車に」と彼女が繰り返した。

初めて聞く声。
普段は活字を追っている目が私の方を向いている。

何が起きているのか自分の中で処理出来ず沈黙している内に電車のドアが閉まり、次第に騒音を増しながら電車が動き出す。

「私、もう少しで東京から離れます。」
「そうですか…だから、今日はこんなに本を…」
混乱して理解不能な事を口走っている。イカン。

「もう、この電車にも乗ることはありません。」
「そうですか…」

「いつも、本を読まれていますね。」
「いや、あなたこそ…」
そう言いかけたが、「えぇ、まぁ…小学生の頃からの習慣で…」と訳の判らない返事が精一杯だった。

「お仕事は…写真ですか?」
肩から提げているカメラに目を向けている。

「あぁ、これ、そう、仕事であり趣味であり…」

言い終わらないうちに。もしくは、これ以上言う言葉が見つからない間に轟々と音を立てながら電車が入って来る。

風が吹き、彼女の前髪をバサバサと躍らせる。

「次の電車、来ましたね。」
「はい」

混んだ電車の後だったから、電車は空いている。
彼女は、いつものようにドアの近くに立つと鞄の中から本を取り出し、美しい姿でて読み始める。

釈然としないまま、私はポケットから本を取り出して目を落とす。目は文字を追うけれど、何が書いてあるのか判らない。

一駅、二駅と過ぎ、私が降りる駅に到着した。
彼女が本に栞を挟むのを横目に見ながら、目を伏せて彼女の前を通り過ぎる時

「さようなら」

という声が聞こえた。

そのまま歩いて行こうと思ったが、ドアが締まって走り出す前の「プシュウ!」と言う音が何とも切なくて振り返った。

急に立ち止まった私に舌打ちするような声も聞こえた。

締まったドアの向こう。遠ざかる地下鉄の中から、彼女は小さく手を振ってくれた。
私は…手首を持ち上げるのが精一杯だった。

エスカレーターを意味無くズカズカ踏みつけ、改札に定期券を叩きつけるようにして通り過ぎ、次の段を蹴飛ばすように階段を登りながら考えた。

私は何か言うべきだったんだ。
私は何か言いたかったはずだ。

数週間前の、自分でも信じられないような話。
[PR]
by coopiecat | 2007-11-27 22:40

力の持って行き方

c0039094_23514672.jpgまずは基本的な機械式腕時計。大きなゼンマイの力を、最終的には渦巻き型のゼンマイが付いた輪っか(テンプ=tempoが語源)を往復運動させることで調速し、適切な時間を出す。

左上:セイコーマーベル
右上:セイコークラウン
左下:セイコークラウンスペシャル
右下:セイコーロードマーベル36000


c0039094_23524789.jpg次は電池式時計。機械式腕時計と同じくテンプがあるが、力を元に往復運動させてるのではなく電磁石の原理を利用して往復運動させて針を動かす力を生み出す。いわゆる「電→磁→力」の応用。

右:ハミルトン・リコーエレクトリック
左:セイコーエレクトロニック EL-370


c0039094_2353933.jpgちょっと異なる方式だが電磁石とゼンマイの力を併用した方式。言葉で説明するのはムズカシイが、電磁石で引っ付いている接点をゼンマイが押し戻し、一杯に戻った所で力が発生する。その力を右上に見えるテンプが調整して針を動かす。

キンツレ置時計


c0039094_23533379.jpgこれはテンプが無い時計だが、いわゆる「クォーツ」というものではない。とはいえ、原理は似たようなもの。
クォーツは電気を水晶(クォーツ)に送ることで得られる振動を運針調整に用いるのだが、ここに掲載した時計は共に音叉を用いており、電気の力で音叉を振動させ、その振動数を歯車に伝達して運針している。

右:オメガ コンステレーション エレクトロニック 300Hz
左:ブローバ アキュトロン


最初に紹介した時計はゼンマイを用いているが、柱時計の場合には分銅を用いて重力を動力源にしているものがある。そのほか、温度差を用いる(一種のゼンマイが介在するが)ものや、日時計や水時計というものがある。

これらに共通しているのは「時間を知る」という目的である。その目的に対して、これほどまで沢山の方法が考えられている。

最終的には「正しい時間を報せる」という意味で共通なのだろうが、その「最終的な目標」があるからこそ色々な手法が生まれるのか、それとも、色々な手法で「最終的な目標」に向かおうとしているのか、そう考えると「目標」に向かう意味が異なって来るように思える。
これは機械だけの問題ではないように思える。
それは、日々の生活でも同じではないのか??と。

ややもすると陥りがちではあるが、「その時良ければ良いじゃない?」や「結果的にツジツマが合えば良いんじゃない?」といった事では無いような気がする。

機械をイジリながら、頭のどこかがそんな事を考えている。
[PR]
by coopiecat | 2007-11-26 23:56 | 時間

久々に時計いじり

c0039094_1174031.jpg仕事から戻って部屋に入ると同時に、故障後数年間放置したままのカメラ「アンゴー」の事をを思い出して取り出す。

半ば無意識のまま的確な工具を工具箱から取り出し、次々とネジや部品を外す。

遠くで自分が「大丈夫かぁ?」と考えている。

結果的に故障箇所を誤解していた事に気がつくほどサクサクと問題箇所に到達し、迷うコト無く対処法を見出す。そして、数年ぶりに「アンゴー」は動き出した。

その後、故障後放置していたカメラを数台手掛ける。
半ば無意識で分解し、反芻するまでもなく組上げる。
これらも動き出してくれる。

「今日は来ている」
その確信を得る。

「何が来ているのか?」と問われると困ってしまうのだが、「それ」が来ると修理が進む。

久々に時計にも取り掛かる。
今日は微調整が必要な部分にも実態顕微鏡の手を借りる事なく目が届き、動き出すように持っていけたものもあれば、完全とは言えないまでも長期間不動だったものを「何とか動く」という状態まで持って行くことが出来た。

数個目に取り掛かった時、基本的な部分で失敗する。
「集中力が途切れた」という事も出来るのだろうが、「今日は帰った」と思う。
ここで無理をすると、取り返しのつかない破損を招く。

不思議な事なのだが、こういうことが実際に起きている。
[PR]
by coopiecat | 2007-11-25 01:44 | 時間

対立や矛盾を楽しむということ

月に一度、心理学の講習会に参加している。一時期停止していた頃もあるが、都合5~6年は継続している講習会である。

先日のテーマは「語りの心理学(ナラティブ・サイコロジー:Narrative Psychology)」であった。講師が発達心理が専門ということもあり、「ライフストーリー」というものが頻繁にテーマとして出てくるのだが、今回もそれに関連している。

要約するならば、人にとってのライフストーリーというのは、その人の生活(もしくは人生)に於ける「意味付け」の一環であるということ。

つまり、「ライフストーリーを語れる」ということは自分自身が過去から現在までの状況を把握しており、何らかの意味を見出しているという事である。

この「ライフストーリー」を語る事、語ってもらうことはカウンセリングの基本事項である。何故ならば、現状に問題があったり、本人が問題を感じている場合に遡る為の重要な情報が含まれているからである。

判りやすい事例を挙げれば「コンプレックス」である。
何故、そのコンプレックスが生じたのか。
そのコンプレックスが現在にどのような影響を与えているか。

そして、「ライフストーリー」にはもう一つ面白い側面がある。
それは、現在語っている「ライフストーリー」は、現在置かれている状況によって解釈が異なっていたり、方向性が異なるということである。

過去の蓄積である現在でありながら、現在から見た過去が異なるというのは矛盾である。これが面白い。

矛盾でありながら同化するということは、理屈で考えれば困難なことである。
しかし、この部分はヘーゲルも指摘しているように「対立物の統一」ということで理論化することが出来るものであり、東洋哲学で言うところの「陰陽」に密接に関連している。

つまり、矛盾や拮抗している事柄は「現象」であって「結果」ではないということである。
これらを「結果」として誤認してしまうと、そこで思考は停止してしまう。思考の停止ということは、人間的生活の否定に他ならない。

とはいえ、コムズカシイ事を考えるよりかは、今様の言葉で言えば「ありえない!」と結論付けてしまう方が簡単であり、自分自身納得できるような気がしてしまう。
これは一つの思考停止。
そもそも、今様の「ありえない」という言葉自体からして、現に起きている事象に対して存在を否定しているのだから、それこそ「ありえない」のである。(笑)

しかし、ウィトゲンシュタインの言を借りるまでも無く、問題は解決ではなく解消されなくては意味が無い。そのためには考えなくてはならない。

矛盾や拮抗が生じた場合、その状況を楽しむということも必要なのだと考える。その際には、間違っている(間違っていない)と仮定することで矛盾点を見出し、間違っていない(間違っている)ことを証明する背理法(帰謬法)を用いるのも有効だろう。

その為には仏教的な考え方であるが、「謙虚」と「寛容」の気持ちが必要になってくると思われる。
なぜならば、自身の意見に固執することは他の意見の排斥を意味するだけではなく、少なからず自身に強要する自己矛盾が見えてくる可能性が高いからである。そうならないためにも、相手の立場で考え、双方の問題意識を共有することで中道を見出すという第三の道を見つけることが可能だからである。

このことがライフストーリーの実態であり、ヘーゲルが言うところの「対立性の統一」であり、ウィトゲンシュタインの言うところの「解消」の向かうべき方向性だと考えている。

あ、「そんなのヒマだから考えられるんだよ!」というツッコミはイケマセン…
[PR]
by coopiecat | 2007-11-19 21:53 | ことば

たまには映画のオハナシ

唐突ではありますが、映画の話が出た時に私が欠かさずタイトルを挙げるのは「ローマの休日」と「ゴースト」です。

「ローマの休日」に関しては、オードリー・ヘプバーンの映画だと思われている方が多いと思いますがが、あれはグレゴリ-・ペックの映画だと思っておるのです。(オードリー・ヘプバーンも好きですが)

予告編(http://www.youtube.com/watch?v=R3L1c5517a8)でもグレゴリ-・ペックが先に出ているではないか!という例示はさておき、あのジョー・ブラッドレーことグレゴリ-・ペックの格好良さったら無いのです。
ああいうオトナに私はなりたい…(なりたかった)

色々印象的なシーンはあるけれど、記者会見のシーン(http://www.youtube.com/watch?v=BAqbcTq2VYg&feature=related)は秀逸。歩いて行くシーンなんて格好良くて泣けてきます。

「ゴースト」はもう、ダメです。

ライチャス・ブラザースが歌う「アンチェインド・メロディ」が聞こえてきた時点で泣けてきます。
そして今回発見したのが、私にとって印象深いシーンが凝縮されたYouTube(http://www.youtube.com/watch?v=KSOFQC0Wd98&feature=related)でした。
「アンチェインド・メロディ」をバックに、私が何度見ても泣いてしまうシーンが凝縮なんて、もう、これは思いっきりツボ。反則技。凶器攻撃。

つい今も、コレを書きながらアドレス確認するために見直して大泣き一回済ませたところです。
最後のシーン(http://www.youtube.com/watch?v=EAcFuW-4Vr8&feature=related ←これはスペイン語?字幕版)でサム(パトリック・スゥエイジ)とモリー(デミ・ムーア)が交わす、二入だけに通じる「あの言葉」と、「その言葉への返事」。それを交わす二人の表情。最後の最後に交わす言葉は「Good-bye」ではなくて「See You」。

その全てが観る度に、「そりゃないよ」って言いたくなるほどの感激で画面が曇ります。もちろん、映画館で観た時にも「そりゃないよ」と笑いながら大泣きしてました。

「ナンダソリャ?」や「はぁ?」と思われる方も居られるでしょうが、もし見たコトが無ければ、ダマサレたと思って見て下さいまし。

気になるのは、両作共に「おとぎ話」系と言われるところで…むぅ…
[PR]
by coopiecat | 2007-11-18 02:16

肩のストラップ

「ほら、またズレた…」
「あ…」

首をかしげながら肩の方を見て、
右手の親指を紐の下にくぐらせて、
指を肩の上まで滑らせると「パシッ」という軽い音を立て、位置を元に戻している。

「それ、何とかならない?」
「何かね、いつもこうなるんだよね」

「どうにかしなよ。無駄にドキドキするよ。」
「そうだね。でも、ムズカシイや。」

「肩の形が馴染まないのかね?」
「そうかも。出っ張りとかあるからかな。」
「出っ張り?」
「さこつ…とか…」

歩いている時にも大きく揺れたり、小さく揺れたり。
いつの時にも留まる事は無い。
こちらは、その都度気になって仕方が無い。

電車に乗る。
電車の振動に合わせてユラユラと揺れるのが見てとれる。
線路の継ぎ目にあわせ、リズミカルな振動で上下に揺れている。

混雑して押されまくる。
肩をすくめ、守るように身体の前で腕を組まれると、否応無しに前に突き出てくる。

「あのさ…当たってるって…」
「大丈夫だよ」

「いや、私は何とかなるにしても他の人がさ…」
「大丈夫だって」

「周りに子供とか居たらさ…」
「その時はちょっと考えるかな」

「これって大きいからズレるのかなぁ?」
「いや、大きさは関係無いんじゃない?」

「短くしてみるとかどうよ?」
「キュウクツでイヤ。」

「斜めにするやつとかあるじゃない。」
「ますますキュクツ!」

「ストラップ、太いのにするとかどうよ?」
「それはイヤ。いかにも!って主張しているみたいで格好悪い。」

「試したことあるの?」
「刺繍してるのとか、色々あるじゃない?あぁいうのすると好奇の目を向けられたり、話し掛けられたりするから絶対イヤ!シンプルなのが一番!!」

「そうかねぇ。」
「そういうもの。」




ということで、私はストラップには「肩当」があった方が良いと思います。
カメラもレンズも無事に保護できるし、周囲にも迷惑かけないし。

c0039094_22382026.jpg

[PR]
by coopiecat | 2007-11-14 22:40 | ははは!

不思議の国の…

朝、日本放送協会の放送を目覚まし代わりに目を覚まし、茨城産の納豆と山形産の「だし」を富山産のお米にかけ、九州産のお茶と共に朝食を済ませる。

日本産のシャツにヴェトナム産のチノパンを履き、中国産のジャケットを身にまとう。
足元には「K-Swiss」というブランドの韓国製の靴、今日の時計はスイス製のロンジン。
肩にはカナダ製のレンズを装着した西ドイツ製のカメラをぶら提げ、耳にはロシア産のCDから録音した音楽を装備。

電車の中では、いつも見かけるドイツ語を専攻していると思われる学生がドイツ語の書籍のコピーを読みふけり、その近くで高校生が英単語を覚えている。
そういえば、この子はいつも試験に追われている気がする。

地下鉄の中では、よく見かけるフランス人の父親と日本人の母親を持つ子供が、いつものようにウルサイ。
この子は、お父さんと居るとフランス語を話し、お母さんと居ると日本語を話している。騒ぎ方も使い分けているような気がして「ろくな大人にならんぞ!」と、いつものように憤る。

職場近くのコンビニエンスストアで「パリジャンサンド」を手にして、日本人、韓国人、中国人の店員が待つレジに並ぶ。

職場に着くと、アメリカ製の万年筆にインクが不足しているのを発見してドイツ製のインクを補充。
もう一本のドイツ製の万年筆にはアメリカ製のインクを補充しておく。

会議の途中に電話が入る。
間違いが無いように「ファクシミリを送信して欲しい」と伝えたところ、先方は成田からの電話で、間もなくフランスに向けて出発するから、詳細はフランスからメールを入れるとのこと。

昼休み、スリランカ人とネパール人が多く勤める「ガンジス」という名のカレー屋に隣接する「テキサス」という名のステーキ屋を道路の対岸に見ながら中華料理屋の前を通過し、喫茶店で「ミラノサンド」とコーヒーを買う。

そしてブランチ(笑)にサンドウィッチを食べた事を思い出し、後悔する。

帰宅前にスーパーに寄る。
オランダ産のアジの開き、ノルウェー産の塩サバ、クロアチア産のマグロの刺身。
オーストラリア産の牛肉にブラジル産の鶏肉、メキシコ産の豚肉が並んでいる。
アメリカ産のブロッコリー、中国産のチンゲン菜の前を通り過ぎ、埼玉産のネギと青森産の「金平ゴボウセット」とイタリア産のトマトの缶詰を籠に入れる。
日本産のオサケはもとより、チリ、アイルランド、スコットランド産のオサケも目に入る。

帰宅すると、昨日に引き続いてチェコから旧東ドイツ製のカメラが届いてるという旨の不在者通知がポストに入っている。

コンピュータを開くと、アメリカから東ドイツ製のカメラに使用する部品を発送したという連絡と、キエフから先日送り返したウクライナ製カメラの交換品を近々に送るというメールが届いている。

CDプレーヤーから流れるオーストリアの歌い手さんの曲を聞きながら、目の前に日本製のドイツブランド名を持つカメラにソビエト製のレンズを付けたものが転がっているのを見ながら、日本産の牛肉と韓国産のキムチ等で夕飯を済ませる。

つくづく思う。
私は今、手の届く範囲で世界各国を手にしている。
そんな不思議の国に住んでいるのだと。
[PR]
by coopiecat | 2007-11-12 23:27 | たわごと

写真な一日

今日は写真に関する出来事で目白押しでした。

まず、先日購入のニコンFモータードライブ付を購入店にて修理を依頼。
メーカーに修理を出すとかで、これはまぁ結果待ちながら先行き極めて不安定。

その後、写真関連業界の方々で構成している写真クラブに顔を出す。
写真家の方と撮影会に行き、数ヵ月後に講評会を行うというもので、今回の講師は大山謙一郎氏。途中参加で後に開催される懇親会に参加できなかったのでご挨拶もしないままでしたが、親しく言葉を交わさせていただき大変楽しい時間を過ごすことが出来ました。

その後、多摩川アートライン(http://tamagawa-art-line.jp/)主催のハービー・山口氏(・=ナカグロは重要!)のスライド&トークショーに参加。先日コメント頂いた事、その後、メールにて御案内頂いたことの御礼を伝えることが出来ました。

先の写真クラブの集まりで、ある方に「実は今日、ハービー氏に会うのです」と話をしたところ、「おやおや、さっきまで会ってたよ。そうそう、これからイベントがあるって言ってたなぁ。よろしく伝えといて下さいな」と言われ、その偶然に驚いたり、会場最寄駅の東急東横線多摩川駅を降りた時に後ろに居たのを知っていたのですが、その時は突然声をかけるのが失礼だと思って遠慮してしまったり。

トークショーでは心に残った言葉も多かったのですが、中でも「今しかできない事をやる」、「自分にしかできないことをやる」という言葉は、自身がそうやってきた方の言葉だけにズシンと来ました。

ここで誤解してならないのは、それらを「思いつき」で行動するのではなくて、確固とした信念に基づいて、それらの行動を起こすという事。これは大切な事だと思いました。

トークショー終了後、帰り際に自ら出口に向かって来場者全員に挨拶と握手をするハービー氏の姿は自然で、来場者への感謝に溢れていて素晴らしいものでした。私はというと、恥かしさもあって、どうしようかと思いながらも人の流れに押されながら、氏と対峙して握手しながら「ありがとうございました」と伝えたところ、「ありがとう」という言葉と笑顔を頂きまいました。

考えてみると、職業的な事もあるけれど、とても幸せな環境に住まって居ることに感謝しています。
それもこれもトーキョーに居るから。

そう、故ジャン・ルー・シーフ氏にお会いしたこともありました。
混雑している写真展オープニングのレセプション会場でバッタリ対峙し、笑顔を向けられて思わず「あの、一つ質問があるのですが…極めて東洋的な考え方なのかもしれませんが、撮影している時に、自分が撮影しているという事よりも、相手に撮らせてもらっていると感じる時はありますか?」という質問を発したところ、じっくり考えて「今まで考えたことは無かったけれど…そう、撮らせてもらっていること。そういうことはあるかもしれない。」という答えを聞き、握手を求められて嬉しく思った事。

それから、セバスチャン・サルガド氏にお会いした時には、知人が通訳をしていて「何か聞いてみたいこととかある?」と言われながらも存在に圧倒されるような形で何も発することが出来ずにモジモジし、その場から辞しようとすると唐突に「ミスター、グッドラック!」とシブイ声で言われて強く手を握られて驚いたり。

そんなこんなを思い出しながら、色々な事があるけれど、もう少しトーキョーで生活して(遊んで?)いたいと思ったりしてみます。

写真を通じて、写真以外にも自分の興味がある事を通じて、色々な人たちと出会い、親しくなることが出来ているのは幸せな事。

そして、学業不振で家業を継ぐことも出来ない私をトーキョーに送り出してくれた両親・家族に対して私が出来る「恩返しのようなもの」は、トーキョーで多くの経験を通じて成長する姿を見せられることなのかもしれないと思ったり。
両親や家族の為に生きるというのでは無いが、今まで散々迷惑や苦労をかけて育ててくれた身近な人達に感謝の気持ちと自身の成長を伝えられないようならば、他の人に伝えることなんて無理だから。そんな事では誰かの役に立つことも出来ないだろう。

と、そんな事も考えてみたりする今日の帰り道でした。

そして帰宅すると、郵便受けにチェコからカメラ到着した旨の不在通知が入ってたり・・・
まったくもって、朝から晩まで写真な日でした。(笑)
[PR]
by coopiecat | 2007-11-11 23:54 | トーキョー

夢見が悪い…

夢を見る。
あまり良い夢ではない。

親しかった人と共に歩いている。
誰だか判っているのだが、誰だか判らないという夢ならではのモドカシさを感じながら歩く。

一緒に歩いているのを嬉しく思っている。
しかし、何かが足りていないのも感じている。

何を話すでもない。
ただただ、「一緒に歩いている事を意識した事が無かったな」という事を考えながら歩く。

そして、「この人の夢を見るのは初めてじゃないか?」などと考えている。
夢を見ている時ならではの事象。

歩みを止める。そして、何かを言われる。
でも、何を言っているのか判らない。
会話すら成立しなくなったのかと悲しく思う。

何かを言う。
自分でも判らない何か。
自分が気がついていなかった「何か」だから自分でも判らないなのかもしれないと思う。

離れる。
見送らないし、見送られない。
その時の顔が笑顔でなかった事を無意味と思いつつ気掛かりに思う。

目が覚める。
気になるが、気にしたところでどうしようもない。
そう思いながら、涙が流れているのに気がついて意外に思う。

何かが大きく変わろうとしている事への暗示なのか、
何かが変わった事を受け入れるための暗示なのか。

とはいえ、自分本位の視点で考えている夢に解を求めるというのは、それこそ無意味。
もしくは、それが何を意味するのか判っているのに、それを認めたくないという視線が空虚な思考を増大させ、会話不成立という形で表現しているのかもしれない。

無意味な事など何もない。
今あるのは過去の事象の蓄積であり、その時々の判断の結果のはず。
自分を過去に戻す事が出来ないように、その事象や結果を消す事も出来ない。

仮に消す事が出来たとしたならば、更に前の段階から自分をやり直すことになるだろう。
「タラレバを語っても仕方が無い」というのは結果論のようで不充分な結論だと思う。

状況等に基づき、その時は最善と判断して行動を起こしたはず。
完全に事象や結果を消し去る事が出来たとしても、おそらく同じ結果になるのではないだろうか。

その結果を知らないのだから、別の対策を昂じるというのは無理という気がする。
だから、その時々に最善を尽くし、それが過ちであったとするならば、次の時には同じ過ちを繰り返さないといった程度で良いのではないかと思う。

とりあえずの結論が出た気がする。
その時、心に天啓のように言葉が到来する。

「それって自己弁護?」

また不機嫌な気持ちになってしまう…
[PR]
by coopiecat | 2007-11-10 23:55 | たわごと