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ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-02

ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」について 2-02_c0039094_2051499.jpg表題:世界の実体としての対象。

2-02 対象は単一である。

2-0201 複合的なものに関する陳述は全て、複合的なものの構成要素に関する陳述と、その複合的なものを完全に記述しているいくつかの命題とに、分解することができる。

2-021 対象が世界の実体をつくる。それゆえ、対象は合成されたものではありえない。

2-0211 世界が実体を持たないとしたら、命題に意味があるか無いかは、他の命題の真偽に依存することになるであろう。

2-02122 そのとき、世界の真ないし偽の映像を描く事は不可能であろう。

2-022 現実といかほど異なった世界を想像したところで、その世界もまたあるものー1つの形式―を現実世界と共有せねばならぬ。これは当然である。

2-023 この不動の形式は、まさに対象によって作られる。

2-0231 世界の実体は形式を決定することができるのみで、実質的な性質を決定することはできない。なぜならば、実質的な性質は命題によって初めて叙述されるー対象の配列によって初めて構成されるーのだから。 後略

2-024 実体とは、成立している事柄と無関係に存立するものである。

2-025 実体は形式ならびに内容から成る。 後略

2-026 対象の存在するときに限り、世界にも不動の形式が存在することができる。

2-027 不動のもの、存続するもの、及び対象。これらはみな同一である。

L.ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」
藤本隆志/坂井秀寿訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス6より抜粋・引用、及び部分的に表記変更

「論理哲学論考」の第ニ節の続きである。写真に置き換えて解釈する前に、この時点でヴィトゲンシュタイン自身の中で循環的展開が行われていることに気が付く。
例えば、1の「 世界は、成立している事柄の全体である」に関して「実体=成立している事柄」と考えるならば、2-0211にある「世界が実体を持たないとしたら」という仮定すら成立しないことになる。それゆえ、「命題に意味があるか無いかは、他の命題の真偽に依存することになるであろう」という展開は生じ得ないこととなる。
しかし、ヴィトゲンシュタインの用いている「実体」と「事態」と「実体」の使い分けを考察するならば、それらは決して同一ではない。すなわちそれは1-2の「 世界は事実へと解体する」ということであり、2-01の「事態は対象―事物、の結合であるー」を経て2-021の「対象が世界の実体をつくる」という論旨に展開するのだろう。
こうした言葉の使い分けの巧妙さは2-0231において「性質」という言葉を選択していることにも伺える。
というのも、心理学的に考えた場合に「性質」と「性格」は近似しているが明確に分離して考えられる構成要素なのだ。大雑把に言えば、生来持っている「性質」に社会的影響等によって構築される「性格」ということなのだが、この言語的区分によって2-0231の「実質的な性質は命題によって初めて叙述されるー対象の配列によって初めて構成されるー」という論旨が成立するのだから。

さて、今日もこれらを写真的に解釈してみたい。

複合的な構成要素である事実をカメラという一つの客観的視覚を通じることで我々の視線は単一の対象に集約もしくは投影することによって画面を構成を行う。(2-02に対する写真的解釈)

複合的構成要素に関する陳述および記述はすなわち一つのイメージにして結果である画像(プリント等)として考えられる。(2-0201に対する写真的解釈)

基本的に一発勝負である銀塩写真に於いては展開した対象によって構築されたプリントは一つの事実であり、世界の実体の一つである。一方、ディジタルにおいては銀塩に対して「合成」が容易である。これがディジタルをヴァーチャルなものと考える要因の一つなのではないだろうか。(2-021に対する銀塩派の独善的解釈)

銀塩であれディジタルであれ、実体が無いのであれば撮影することができず、それらを構成する「命題」が真偽であるかすら判断することはできない。(2-0211と2-0212に対する写真的解釈)

想像、そして創造するにしても何らかの撮影された素材(現実世界によって作り上げられた素材)を用いなくては(共有しなくては)ならない。ハイ、当然だと思うデス。(2-022に対する写真的解釈&苦笑)

ハイ、対象無くては成立しませぬ…(2-023に対する…写真的苦笑)

ええ、対象の配列・配置無くして写真は成立しませぬ…(2-0231に対して写真的半泣き…:笑) 

銀塩を用いたコラージュやディジタルによる画像加工の容易さは成立している事柄と時に無関係に存立することが可能です。(2-024に対する写真的可能性を含めた解釈)

そして、これらの構成要素と可能性を内包することで「写真」という「形式」や「世界」が成立することが出来る。この時、銀塩もディジタルも「同一」なのである。(2-025、2-026、 2-027に対する写真的解釈)

ふぅ…

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by coopiecat | 2006-03-18 20:05 | 論理哲学論考
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