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Leica ライカ らいか!

Leica ライカ らいか!_c0039094_1101353.jpg「なぜライカなのか?」とは、割と多く聞かれる質問である。

答えは下記の2つに絞られる。

1:「写真関係の仕事していると、特定のメーカーの製品を使用する訳にはいかないデショ。そういう時、ライカって便利なんですよね。」

2:「何ででしょうね…、特に何が良いってワケではないですが、私にとって使いやすいってだけで」

しかし、それは建前に過ぎない。
本音は「私はライカが憎い。心の底から憎い。それと同時に感謝している。」というものです。

1940年頃、朝鮮半島で小学校の校長をしていた母方の祖父は余暇を写真の趣味に充てていて、ライカを所有していた。
巷間言われる「皇民化教育」というものには賛同していなかったようで、朝鮮人(あえてこのように書かせていただく)の子弟を日本人子弟と同じように扱い、地域からも相応の信頼を得ていたが、色々と苦労もあったのだろう。仕事の合間、休みの日には「ライカ」を持って一人出かけ、撮影を楽しんでいたようだ。

1945年8月、引き揚げる時が訪れた。
家はもちろん家財の大半を近所の人達に分け与え、自分達が持てるだけの荷物を持ち、家族を連れて引き揚げ船に乗り込んだ祖父。その荷物の中に愛用の「ライカ」を忍ばせていた。愛用機であることもさることながら、引き揚げ後に「ライカ」を売却すれば生活することが出来るという思いがあったようだ。

朝鮮半島から九州へ。今では短時間だが、当時は一昼夜ほどの時間を要したという。
港に入り、心待ちにしていた祖国が目の前にある。接岸を待つ間、船内には「外国製品を持っている人間と家族は逮捕・拘留されるらしい」という噂が広まった。
港の水面には、その噂を聞いた人々が投下する外国製品の波紋がポツポツと広がっていた。
祖父は迷った。しかし、意を決して「ライカ」を海中に没した。掛け替えのない家族のために。

もし噂が本当ならば、運命の歯車は変更されて私はこの世に生まれていなかったかもしれない。
祖父を惑わせた「ライカ」は憎いが、「ライカ」が海中に没したことで私は生きているのかもしれない。

時は流れ、進学で悩む私に祖父はよく「東京に行け」と言っていた。
高校の時、私は写真展の県代表に選ばれ、写真を趣味としていた祖父に報告をした。その時、祖父は末期癌で入院しており、言葉を発するのもやっと。それでも、報告を聞いてうなずいてくれた後、「勉強も、頑張れ」と言った。私が聞いた祖父の最後の言葉だった。

特進(特別進学クラス)ですら東京の大学に進学することは困難と言われていた高校から、見事東京の大学に合格し、アルバイトをして貯めて買うものは決めていた。「ライカ」だ。祖父を楽しませ、そして悩ませた「ライカ」だ。

それまでに祖父が使用していた「ライカ」の型式等は勉強していて、おそらくは「DⅡ」や「DⅢ」と言われるモデルと目星をつけていた。しかし、予算が厳しかったこともありボディは「DⅢ」に決定し、レンズは「エルマー」ではなく「ズミター」を購入(その時は「エルマー」より「ズミター」の方が安かった!)して、私と「ライカ」の愛憎こもごもの日々が始まった。

何年も経過して「ライカ本」ってやつをを見てみると、私が購入した「ライカ」は1933年に製造されたクロームの14番目のロット(全体では33番目のロット)の最初の番号の製品だった。ひょんなところで自己主張され、奇縁を感じたものだ。

メイン機種は変われども、これからも私は「ライカ」ってヤツを使いつづけると思う。
大切にしながら、ボロボロになるまで使い倒してやるつもりだ。

Kodak DX6490 Digital Camera
Schneider-Kreuznach Variogon 38-380mm
Belichtungsautomatik

COPYRIGHT:Coopiecat
by coopiecat | 2006-10-26 01:13 | カメラ/写真
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